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【壱】
時は平安、一条天皇の御世。
「きゃあああ!」
寝殿造りの屋敷に甲高い女の悲鳴が響き渡る。
時刻は草木も眠る丑三つ時、満月が煌々と都の天高くに鎮座している。
「あな恐ろしや!」
老若男女、悲鳴は次々と沸き起こり今や騒ぎは門の戸を叩く勢いで屋敷内に広まっていた。
「どうしたのです!?」
騒ぎの元となっている東対の部屋に駆け付けた少女に、女房の一人が失神寸前といった形相ですがりつく。
「あ、明姫(あけひめ)様っ!妹君が……っ、葵様が……!」
「葵殿…!?」
明姫と呼ばれた少女が女房の指差す先に視線を移すと、果たして夜着を乱し四つん這いで唸る妹姫の姿が在った。
その眼はぎらぎらと獣のような野性を帯び、口許からはふしゅうふしゅうと息が荒く洩れて唾液が滴り落ちている。
「誰か陰陽師をこれにっ……!」
腰を抜かした女房たちを部屋の外へと追い立てながら、明姫は妹姫と向き合う。
今夜に限って、父も兄君も外出している。
「葵殿っ、目を醒ましなさい!!」
獣の殺気を感じながら、明姫は懐(ふところ)から短刀を取り出した。
今から呼んだところで陰陽師が間に合うとは思えなかった。
(頼れるのは己のみ……!)
屋敷を護るはずの侍(もののふ)達はあろうことか、先だって逃げ出したらしい。
空気が張り詰めるのを感じながら、明姫は短刀を鞘から抜き放った。
(あるいは、母上から授かったこの刀なら……!)
獣と化した妹姫が自分を目掛けて飛び掛かるのと同時に、明姫も怯まず妹に向かう。
「葵殿、御免!」
と、その瞬間。
明姫の視界を白い衣が覆い隠し、身体がふわりと後に押し戻された。
品の良い香が微かに薫る。
明姫と葵姫の間に突如現れた人物は、白い狩衣(かりぎぬ)をはためかせ、口の中で何事か唱えると襲い掛かる姫君に掌(てのひら)を向けた。
「吽(おん)!」
凜とした声が発され、獣を宿した姫君は「ぎぃゃぁぁあぁぁあ」と耳障りな断末魔をあげるとぱたりと床に倒れ伏した。
灯台の炎が外から吹き込んだ風に掻き消され、屋敷に再び夜の静寂が戻った。
※女房…女の召し使い
※狩衣…平安時代の男性の着物
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