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【終】
その後、左近衛少曹・橘惟次は妻と供に太宰府(だざいふ)の地に下ったと、明姫は風の噂を耳にした。
一見左遷のようだが、惟次は自ら防人(さきもり)になるべく志願したという。
だが、惟次は右手の自由がきかなくなったのだとも伝え聞いた。
(代償だ……)
袿姿の明姫は庭園の橋に佇み、流れる小川を眺めながら考えに耽っていた。
蝉の鳴き声も大分落ち着き、水のせせらぎが心地よく耳を撫でる。
(私が……斬ったから……?)
真明の持つ朱色の妖刀。
人間の身体は傷つけず、憑いた妖のみを貫く呪いの刀。
しかし、その代償は斬られた人間から何か一つ奪い取る。
それは妖の力が強ければ強いほど、宿主となった人間に大きな爪痕を残した。
そうして惟次は、刀を抜くべき右手の自由を失ったのだ。
(それだけで済んだと喜ぶべきだろうか……)
明姫は誰に聞くでもなく、内心で独りごちた。
生温い夕風が頬を撫でる。
息苦しかった熱風はやがて秋風へと変わるだろう。
明姫はふと、あの陰陽頭ならどう考えるだろうかと思った。
きっと、それは惟次が決めることだと、これまで通り淡々と答えるだろう。
惟次が防人を志願した本当の理由は分からない。
自分が犯した罪を償うつもりなのかもしれないし、或いは単に都から逃げたかったからかもしれない。
今となっては確かめることも出来ぬが……
(生きてさえいれば……)
「救った」などと思ってはいない。
ただ、この先惟次が少しでも良い方向に向かえばと切に明姫は願った。
『……人間が在る限り悪意は生まれ続ける』
ふいに吉平の言葉が心の端を掠めたが、明姫は振り払うように大きくかぶりをふった。
「姉上~っ!」
屋敷から葵の元気な呼び声がする。
明姫はいつもと変わらぬ笑顔を浮かべてそれに応えた。
【第三章・完】
※太宰府…現・福岡県にある。
※防人…辺境を守る兵士
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