第一章

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   少女は何も言わずに猫缶の一つを僕の方に寄せた。  猫が一匹寄ってきて、にゃあと挨拶するように鳴いてから猫缶を貪りはじめた。  ゆるやかな春風に、少女の長い黒髪が目の前で揺れた。  あの購買の紙袋からはみ出した尻尾を思い出す。  所謂、“触ってみたくなる衝動”を駆り立てた。もしかしたら前世は猫かもしれないな。 「どうした?」  少女がこちらを向く。  しまったな。隣にしゃがみ込んだはいいが、意外と近い。 「何だよシャム太」 「誰がシャム太だよ」 「お前だよ。そう名乗ったじゃないか」  あー、まあいいか。 「シャム太は猫好きか?」 「とりたてては」 「何だよ、じゃあ帰れよ」  本気で言ってるなら帰るとしよう。 「ま、俺もそんなに好きじゃないけど……」  これはツッコムべきところか? 微妙だな。 「何で餌を? っていうか、この猫たちは?」 「こいつらは野良猫だろ? 結構何匹か住み着いてるみたいだな。餌をあげてる理由は……たまたま猫缶があったから」  普通に学生生活を送る上でたまたま猫缶があることはまずないと思うけど。 「友達が持ってた。売ってもらった」  だから、その友達も持ってるのおかしいだろ。  調理実習でシーチキン缶と間違えて持ってきたのか? きっとその子の家の猫はいつもと違う餌に舌鼓を打ってることだろうね。 「お前さ、そういう皮肉っぽいのやめたら?」  まるで旧知の親友の助言みたいだな。 「アンタはもう少し女の子っぽく喋ったら?」 「セクハラだな」 「皮肉だよ」  野良子――と名乗った少女――は、何か言いたげにこっちを見据えたが、何も言わずに子猫に視線を落として、背中を撫でた。  満腹に目を細める子猫は気持ち良さそうに一鳴きする。 「猫みたいに喋ればいいのかな」 「は?」 「いや、女の子っぽくって」 「……そういうのを好む男もいるな」 「円周率はπで表せるにゃんっ」 「……やめとけ」 「うん」  何故円周率?  まあ、声だけなら合格をあげなくもないが、それは敢えて口には出さなかった。  
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