一章・遣唐使船 1―1

2/5
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/111ページ
時は、天平勝宝五年(七五三)。  世にはまだ、人を食う化け物や、精神に影響を及ぼす霊、人に憑く物の怪などの、人間成らざる者が跳梁跋扈していた時であった。  人々は、恐怖して安日を奪われていた。  しかし、人間がもっとも恐れていたのは、他にあった。  それは、自分の姿をも隠すような、闇であった。  生温かい風が、袁晋卿をなめた。 「眠ってしまったか」  袁晋卿は、少しまえ、離れていく生まれ故郷を、眺めていた。  多くの国と交易をしてきて、世界一の大都市と言われている国、唐。その一部である蘇州から、出航した遣唐使船は、日本へ帰国の航海をしていた。  次に唐の地を踏むのはいつになるだろう、そう考えていると、いつの間にか眠りについていたのだ。  今ではもう、唐の姿形は見えなくなっていた。その事実が、なんだか寂しくて、心臓を握り締められたような、息苦しさに襲われ、涙が出そうだった。 「忘れよう。僕は国の威信をかけて、日本へ行くんだ」  それが家族や国の名誉のためになるんだ、と自分に言い聞かした。だが、忘れようとすればするほど、記憶の波は強くなる。友人や、家族の笑みが蘇る。  記憶の波に呑まれ、とうとう、袁晋卿の目尻に涙が浮き出た。絶対に流さないぞ。強く念じながら、狂ったように首を横に振った。 「何をしているのだ」
/111ページ

最初のコメントを投稿しよう!