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だから私は、[私のことを誰も知らない街]に行きたいと思った。
誰にも気付かれないように…。
そう願いながらコソコソと身を隠し、地元の小さな駅から電車に乗った時には、スパイ映画の主人公になったような、そんな気がした。
私の住む田舎の小さな駅から在来線に35分乗ると、[新幹線]に乗れる大きな駅に着くことができる。
憧れの[新幹線]‼︎
でも、新幹線に乗るってとても大変で、とても怖い。
だって、今まで一度も新幹線に乗ったことのない私にとって、それはとてもとても恐ろしい体験。
キップの自動販売機なんて私には使えないし、ましてや[みどりの窓口]なんて、自分の生きている世界とは遠く離れた別世界の物だったから。
服に毛玉やシミのない綺麗な人たち。
そんな“特別な人たち”が[みどりの窓口]に行くんだと思ってたから。
だから自分が[みどりの窓口]に並んでいる時には、心臓が破裂するんじゃないかと思った。
[自分の番がきたら、ちゃんとあの窓口の職員さんと話せるだろうか?]
[私を怒らないで…]
[私をバカにしないで…]
[私の言葉が聞こえますように…]
そんな事ばかりを考えながら列に並んでいた。
私の前には腰の曲がったおばあさんが並んでいて、そのおばあさんのように自分も振る舞おうと、ずっとおばあさんを観察していた。
けれど、おばあさんは自分の番になる前に、何かを思い出したように列から離れてしまった。
それはあっという間の出来事で、心の準備ができていない。
なのに、どうしたらいいのかわからないまま、私の番になってしまった。
私が[みどりの窓口]のカウンターに立つと、清潔感のあるJR職員のお兄さんが、私にニコッと笑う。
[緊張で死んでしまう]と本気で思った。
私のなんとか絞り出した言葉を、お兄さんは“なんともない風“に、“日常の他愛無いヒトコマ“として受け入れて、
カシャカシャとパソコンの“ボタン“を叩く。
[みどりの窓口]のお兄さんの爪は綺麗に整えられていて、爪に垢なんか溜まってなくて、清潔で。
無精髭なんかなくて、清潔で。
パソコンのボタンをカシャカシャ押しながらモニターを見る横顔の耳がうっすらピンクで、“あの人“みたいに耳垢なんか全然なくて、清潔で…。
そうやって、緊張しながらも切符を買い、生まれて初めて新幹線に乗って、なんとなく聞いたことのある大きな駅に降りてみたものの、これからどうしようかと不安になった。
就職先なんて決まっていない。
私の財布には、死に物狂いで貯めた全財産が入っている。
それだけなのだ。
しかし、そんな不安はすぐに吹き飛んでしまった。
空っぽの人生を凝縮したような、ブラックホールみたいな生まれ故郷から、遠く離れた新天地の改札を抜けると、地元では考えられないような光景が広がっていたから。
たくさんの建物。
その全てが、首が痛くなるほどに高いのだ。
たくさんの人。
みんなオシャレで、ヒラヒラと舞いながら歩いてるように見える。
目に写る全てが眩しすぎて、興奮と目眩で倒れそうになった。
この街全部が、私のモノなんだ。
私を蔑んだ人間たちは、ここにはいない。
私の新しい生活が、
いや、違う。
私の人生が、今始まったんだ。
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