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電車から降りて、会社へ向かう道を歩く。
熱気を帯びた街を通り過ぎ、エアコンの効いたビルに入ると冷えた汗が少し心地よかった。
その時。
不意に遠くで名前を呼ばれた気がして振り向いた。
誰もいない。
気のせいだと思い、デスクにつく。
いつもと変わらない日常が始まる。
そう思っていた。
午前中はデスクワーク中心に今度の新商品のプレゼンテーションの資料作成に明け暮れた。
小さな会社だが、今注目を浴びている麺産業に先駆けて、新しい麺の在り方を提案している。
元は素麺を生産し、販売していたのだが、うどんや蕎麦など様々な麺を取り入れてきた。
従業員50人という小さな規模だが、全国的にも名が通るほどになったのは現社長の手腕の凄さを物語っている。
一代で会社をここまで育てた社長を凄いと思う半面、俺はいつも複雑な気分になる。
なぜなら…
『おい、森!社長がお呼びだ。失礼のないようにな。』
突然上司に呼ばれる。
分かりましたと応え、重い足取りで社長室に向かった。
『失礼します。』
ドアを開けて部屋に入ると、そこに座っているのは社長であり、俺の親父でもある人なのだった。
社長と俺が血縁関係だということは社内でもあまり知られてはいない。
故に社内では社長と呼び、二人で会話をすることなどほとんどなかった。
こうやって社長室に呼び出されることの方が珍しい。
なんの用か聞きそびれていると、親父の方から話かけてきた。
『ここは誰もいないから普通に話しても平気だろう。というかな、母さんに頼まれて弁当渡したかっただけなんだ。ほら。』
そういうと、親父はいつもと同じ弁当箱を俺に渡した。
母の料理の腕前は身内びいきじゃないがなかなかのものだと思う。
外食の時以外で、インスタント食品を俺は食べたことがなかった。
出来合いのものも母は嫌いらしく、時間の許す限りキッチンにいた。
手間隙かけた母の料理は、本当に美味しいのだ。
一度だけ何気なく母の料理を褒めたことがあった。
いつもは照れ臭くてそんなこと、絶対言えないのだが。
知らず、言葉が口をついて出た時、母は少し驚いた顔をした後、いつものように笑った。
『母さんね、料理なんて得意じゃないんだよ。ただね、大好きな人に美味しいご飯を食べて欲しいから。美味しくなれって思いながら作ってるだけ。いつも美味しそうに食べてくれてありがとう。』
そう言って母は、でも何故か少し寂しそうに笑うのだった。
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