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「ねぇ、さっき言ってた仕事のことって、本当なの?まだ知り合って何時間もしてない女に企業秘密事項を話すなんて、あなたもずいぶん疲れてるのね。」
女はウイスキーをのみながら壁によりかかって、おっとりとした目で男を見つめている。
「世間はそんな簡単に出来てないさ。ぼくがどこで働いているのかも知らない君に話したところで、何か動き出すわけでもない。世間からすりゃ、おれの力はどうせこんなもんかって、上を目指す気にもなれないね。」
男はそう言って、女から受け取ったバーボンの中の氷を、じっと見ている。
人として冷めている、とはいえ、やはり人間。
考えたり悩んだりすることだってある。
ただ、冷めている人間は、これを見つめることなく、ただ通り過ぎるのを横目にみてしまう。
言い方を変えれば、逃げているだけなのかもしれないが。
そんな男をみるのも飽きた女は、
「先にはいるわよ」
と、ウイスキーをもったまま、浴室に向かった。
男は考える。
あの女と一夜を過ごし、何が得られるというのか。
今更さみしさなどないし、明日の希望のためのストレス発散をするほど、エネルギーも残っていない。
ひとつあるとすれば、どこか記憶の奥の方を刺激される、女の声と匂い。
それが何かはわからないが、何もない日常ゆえに、それに引きつけられてしまった。
そのころ浴室でも、考えている人間がいた。
明日も仕事で、こんなところに泊まる方がよっぽど疲れることはわかっていたのに、
なぜか、男のその手を離すことを無意識の自分が拒んだ。
シャワーで酔いを流しても、その感覚は変わらない。
これからやってくるような気がする得体の知れない大波に、全身が恐怖ともとれる感情にうちひしがれた。
ふたりは今まで歩いてきた道をもう一度確認するかの様に、自分の足元を見つめていた。
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