短編その壱:剥離

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――苦しいなあ。 心の中で弱音を吐きながら、俺は何度も何度も片腕だけで体重を支え、それを上下させる。 片腕立て伏せ300回。 馬鹿みたいな内容だが、これが今の俺にとっては毎晩の義務となっているのだから笑えない。 初めは普通の腕立て30回、腹筋30回、背筋30回と、ごくごく普通のメニューだったのだが、この『組織』に拾われて5年目の今となっては腕立ては片腕立てへと変わり、30回は300回へ。 腹筋と背筋自体は変わらなかったが、それも500回と大きく数字を増やされた。 ベッドと机、そして椅子くらいしか置いていない非常に殺風景な俺の自室には、およそ死角と呼べるものが無いほどいたるところに監視カメラが設置されている。 故にサボることなど出来ないし、正直サボろうだなんて思いもしない。 サボればそれだけ痛い目を見るのは自分だからだ。 既に俺は『存在していない』。 名前も過去も、全て組織に剥奪されている。 ならば、俺が俺である為には、もはやこの組織に従うほか無く。 故に、俺がこの組織にとって用済みだと判断されれば、俺は死んだも同然。そして実際に肉体的にも死ぬことは想像に難くない。 それだけは、嫌だった。 たとえ何も残っていなくても、たとえどんな形であろうとも。 俺は生きていたかったのだ。 だから俺は今こうして自らの身体に鞭を打っている。 これをサボってみろ。 それ自体については組織は何も咎めないかもしれないが、昼間の訓練で結果を出せないようになればおしまいだ。 5年前には、昼間の訓練に参加する人間は俺を含めて何十人かいたのを覚えている。 しかし今はどうだ。 既に6人。 たったの6人しか残っていない。 では消えた何十人かの人間はどうなったのか? 死んだのだろうと、俺は思う。 概念的にも、肉体的にも。 もしかしたら、そうでないかもしれないが。 ただ少なくとも、ろくなことにはなっていないだろうことくらい、容易に想像は出来るのだ。 「――さん、びゃく……!」 ぐっ、と300回目の片腕立て伏せを終えて、俺はバタリとその場にうつ伏せに倒れこむ。 そうして、そのまま静かに意識を沈めてゆく。 疲労した身体は人間の三大欲求の一つに従い、そのままゆっくりと休息に向かうのだった。
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