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ずっと崩すことのなかった笑みを、冬子は初めて正視した。
「ありがとう」
ニコリともせず、冬子はきびすを返した。
「覚えて下さい」
数歩、踏み出したその足を、耳の奥に残る心地良い声が引き止めた。
肩越しに振り返った先に、絡みつく視線。
「徳永千優(トクナガ チヒロ)俺の名前です」
それは、取り上げるほどのインパクトもない出逢い。
視線が絡みついて、そして解ける。
勝手に名乗ってきた男に名乗る名などないと、冬子は何事もなかったように食堂を後にした。
会話らしい会話はしていない。
柔らかな笑みを浮かべて、ただ視界にいただけなのに、腕の中に囚われてしまったような感覚が消えてくれない。
穏やかでいて、けれど、鋭い視線が今も絡みついているようで、冬子はそれを記憶から消し去ろうと首を横に振った。
「ありゃ、相当のクセ者だな」
ざわめく講義室の片隅で、冬子は深い溜め息をついてうなだれた。
「誰がクセ者なの?」
「あー……、南里(ナンリ)か」
「何かあったの?」
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