梵天丸

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米沢の伊達家は、鎌倉時代からつづく名門である。代々の当主は、足利将軍から名の一字をもらって名のっていた。伊達家十六代輝宗も、将軍足利義輝の輝の一字をもらっている。 輝宗の二、三代前ごろから、伊達家は、奥州探題としょうするようになった。 探題とは、幕府が任命する、その地方の長官である。支配者だ。しかし、世の中が実力主義の時代になると、支配者のいうことをきかない者がでてくる。それどころか、 「われこそは、探題になってやろう」 と、勝手なことをいいだす者がでてくる。探題もそのような者に何人かかわった。伊達家の探題も本当に将軍が命じたものかどうかはわからない。伊達家が本当に探題であったにしても、伊達の支配は、奥州、つまり東北地方全土におよんでいるわけではない。米沢地方と福島県、宮城県の一部にすぎない。名実ともに奥州探題になるのは、大変にむつかしい。
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