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「……あっ」
分厚いノートを取り出して何やら熱心に書き込んでいた主人が、小さな声を上げた。
そろそろ準備を促そうと頃合いを見計らっていたクラウドは、小首を傾げながら尋ねる。
「どうなさいましたか?」
「ああ……いや、万年筆が割れてしまった。安物の割には頑張っていたのに」
ほら、と彼女が振り返って見せたペン先は、確かに歪な台形に割れていた。
「ペン先だけお取り替えすれば……と思いましたが、本体まで罅が入っていますね。
お怪我はございませんでしたか?」
「大事ない。少しばかり強く握りすぎる癖があってね。まあ、よくある事だ」
アイリスは小さく溜め息を吐き、漸くペンを置く。
「そろそろ時間か。陛下をお待たせする訳にはいくまい」
「はい、アイリス様」
その肩にストールをかけようとクラウドが歩み寄れば、アイリスは一瞬唇を開きかけ、迷ったようにすぐに閉じた。
「……何か?」
「……うん、そうだな。君はそのままがいい」
「はっ?」
「恐らく、これから私達の周囲は目まぐるしく変わるだろう。
それでもせめて君は、ずっと──いや、何でもない。忘れてほしい」
──決して命令などではなく、アイリスとしては個人的で、実に細やかな願いのつもりであった。
が、一度口にしてしまえば最後、クラウドは忠実にそれを守らんとするだろう。
幾ら主従の関係とはいえ、気紛れに彼の生き方を拘束する権限はない筈なのだ。
寧ろアイリスは、それを彼自身の判断に委ねたかった。
「……貴方が私を従者と呼んでくださる限り、私は決して変わりません。たとえ、貴方自身がお変わりになったとしても」
しかし、クラウドは朗らかに笑ってそう言って退けたのだ。
どうしようもない安堵と共に、『いつも通り』の彼の調子に、可笑しさが込み上げる。
「ふふふ、中々に大きな事を言うようになったね。
……良いだろう。その賭けに君が負ければ、それ相応のペナルティがある事を忘れるなよ?」
「賭けにもなりはしませんよ。
私は、貴方に人生の全てをかけてお仕えすると誓った従者なのですから」
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