その乙女、婚約

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  「奥様でございますね。お待ちしておりました」 「……貴方は??」 「私、執事のクロスロードと申します。  この本邸にいらっしゃる間は何なりとお申し付けください」  ──腰を折り深々と頭を下げる執事を前にして、『奥様』と呼ばれた少女の気分は一層重たくなった。 「アイリス・エランティスと申します。宜しく頼みます」  それでも愛想良く微笑んでみせれば、執事も同種の笑みを返してくれる。  上級使用人という身分に相応しく、よく訓練されているのだろう事はすぐに解った。 「……旦那様は、どちらに?」 「書斎にいらっしゃいます。  本邸でお過ごしになる朝は、何かしら一冊読み終えるまで書斎に籠もってしまわれるのが日課なのです」 「そうですか……。  ですが、私が本日参る事はご存じだったのでは?」 「ええ、勿論でございます。  先程もご忠告申し上げたのですが……旦那様は余程の事がない限り、その日課だけは崩された事がございませんので──」  そう口に出してから、執事はほんの一瞬『しまった』という顔をした。  勿論彼の失言には気付いたものの、よもやそれを追及する気力もない少女は、吐息を漏らしただけであった。  それも落胆の吐息ではなく──想定通りの事態に呆れた故のものだ。  ──彼にとって自分が来る事が『余程の事』ではない事など、最初から解っていたのだから。 「……それでも、まずはご挨拶に伺うのが礼儀。書斎に伺っても宜しいですか?」 「え、ええ……勿論でございます」  跋の悪さ故か、執事は案内を承諾し、少女のやけに少ない手荷物を慌てて引き取った。
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