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思い出すたび、内臓が粟立つ様な感覚に襲われた。
掻き乱されることがないと思っていた感情は、黒く塗り潰したはずの心の色を少しずつ剥ぎ取り、肉の裂け目からじわりと浮かび上がる鮮血の様に揺らめきながら変化していく。
まるで道標の様に一滴、また一滴と滴り落ちる紅は、雅人の中の抑え切れない衝動を突き上げ駆り立てる。
それが一体誰のものだったのか、肝心な部分が抜け落ちてしまった頭では、どう足掻いても思い出せるはずがない。
手繰り寄せた記憶によく似た景色を前に、雅人は闇の境界を見つめたまま息を呑んだ。
大きく弧を描いて空気に溶ける真っ白な光が雅人の目の前を過ぎる。
瞬きをする刹那、脳裏を過ぎる影。
ま、まさ…と…――。
耳の奥に木霊する声に困惑する。
聞き覚えのある高く澄んだ声。
ひび割れ抜け落ちた記憶が、再び前を横切る白に照らされ、闇に閉ざされる。
「か…華織……」
無意識に口唇はその名を紡ぎ出す。
それ以外のことは思い出せず、押し込めたはずの感情に雅人は呑まれそうになった。
躯中を駆け巡り激しく渦巻いているのに、言葉にもなれずに再び闇に覆われる。
自ら瞳に焼きつけた、いつかの情景も閉ざされ、不気味なほど静まり返る衝動。
青ざめていく躯は一滴の血も残っていないと錯覚する程に冷えて、静寂の海に吸い込まれようとしていた。
膝をつき覗く水面は纏わりつく動揺など映し出さない。
ゆっくりと弧を描き、もう何度目になるのか闇に浮かぶ白が雅人に向き直る刹那――大きく心を揺るがす一言が雅人の脳裏を過ぎる。
あの聞き覚えのある高く澄んだ声が鼓膜を震わせて奥にこびりつく。
浮かべる表情は、困惑。
その言葉が意味するものを捕らえられずに、雅人は息を呑んだ。
後悔、しない…――?
それは紛れも無く、華織の声だった。
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