あの夜の記憶

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 ”足音”を耳にしたのはそれより更に三年程さかのぼった夏の日のことだ。蒸し暑くて寝苦しいお盆の夜だった。その夜僕と妻は並べた二つの布団の上にそれぞれ寝そべっていた。床に就いて照明も消していたが二人ともなかなか寝付けなかった。  当時はまだ築浅だった二階建てのアパートの一階。2DKの角部屋といえば聞こえはいいが、他の部屋よりひとつ余計に与えられた特典であるはずの窓は北向きで、開けると隣接した戸建ての家が目に入る。玄関のある西側のダイニングキッチンは夕方の熱い太陽に照らされ、東側の寝室は日の出とともに目覚めを余儀なくされる。正直快適ではないが、支払っている家賃には相応しい。  ”足音”はアパートの東側にある駐車場から聞こえた。掃き出し窓を挟んで寝室のすぐ向こう側だ。はじめは遠くから聞こえだしたその乾いた音は、ゆっくりとリズムを刻んでこちらに近づいてくる。  誰かが下駄を履いて歩く音だった。それは、京都の舞妓さんなどが履くぽっくりとは違い、重厚感のある男性用のそれに思えた。硬い地面の上を半分引きずりなら、カラランコロロンと音を立てる。今でも下駄を履く人がいるんだ、と関心したのを覚えている。  駐車場の出入り口はアパートの南側の車道に面する一箇所のみだ。つまり僕達の部屋からみると反対側の角部屋の方向だ。駐車場の周りはフェンスなどで囲まれており、別の場所へ通り抜けることはできない。利用者は、その出入り口からやってきて僕達の寝室付近に停めてある車に乗り込みエンジンを掛け、そして旋回してから同じ出入り口を抜けて車道に出る。当然だが帰りはその逆だ。  日頃からその一部始終の物音を耳にしている僕達にしてみれば、出入り口方向から近づいて来る足音を聞いたからには、その次の儀式が行われるのを無意識に期待する。  ところが、その下駄の音は寝室のすぐ前まで接近して止まったまま、車のドアを開ける気配もエンジンを始動する様子もない。だからといって出入り口へ引き返す足音も聞こえない。そして、そのまま窓の外はすっかり静まり返ってしまったのだ。 「聞こえた?」暗い寝室で妻がまだ起きているを確かめた上で僕はきいてみた。 「うん、聞こえた。今時下駄なんて珍しいよね」妻にもそれが下駄の足音に聞こえたようだ。僕は思わず小声になる。 「どこへ行っちゃったのかな」
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