名も無き花

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   蔵へ行くには外に出て飛び石を渡る。  そのため彼女は一度玄関へ草履を取りに行き、片手に片方ずつ草履に鼻緒を引っ掛け屋敷の長い廊下を駆けていた。  廊下の行き止まりから一段くだれば、飛び石だ。  文字通り、ぴょんぴょんと石から石へ跳んでいく。  飛び石の両脇には、けばけばしいまでに色鮮やかな花々が隙間なく植えられている。  蔵を守る“花”たちが眠っていると零に聞かされたときはゾッとしたものだ。  だから彼女は、花の名前を拒否した。 「私には美智子って名前がある。煩悩を打ち消す、精神の美しい子になるようにと父がつけてくれたのよ」  そのとき零に突きつけた文句をもう一度口にして、肩をすくめ苦笑いする。 「今は真理だけどね」  蔵の鍵はあいていた。  重い扉に肩をあて、全体重を傾ける。ほんの少し開いた隙間から、ぶぉん、と冷ややかな空気が吹き出せば、いくらか扉は軽くなり、軋む音を轟かせながら開いた。  蔵の中は、首筋にひやりとする。  ただでさえ高い天井に届かんばかりにのびる書架がずらりと並び、黄金の置物が通路ごとに据えられている。  厳かな雰囲気に圧倒されて、はからずも息をのんだ。  足音が書架と書架の間を反響して、独特のリズムを創りだす。  真ん中の通路を中程まで進むと、奥の机で、大量の文献に埋もれるように突っ伏している人影を発見した。  走りよって、顔をの覗き込むと、長いまつげが縁取る目はぴたりと閉じられていた。呼吸に合わせて肩がゆるやかに上下している。 「……寝てる」  ガクリ、と肩を落とした。零の多忙さは一番近くにいた自分がよく知ってる。  それなりに規則正しい生活を送っていた自分が、彼が寝ているところをほとんど見たことがないという有様なのだ。 「どうしよ……」  彼を起こすという選択肢はできるだけ回避してやりたいが、皇士郎に任せてきたあやも心配だし、こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうかもしれない。 「零ちゃーん、風邪引いちゃうわよー」  とりあえず、耳元でささやいてみれば、ガタン、という大きな物音と共に景色がひっくり返った。
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