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その日から、俺は、「お兄ちゃん」になった。
その日、それまで生きていた中で一番取り乱した後、今まで生きてきた中で一番冷静になった。
見知らぬ女の子を預けられて、わけがわからないまま、ひとがひとに殺される現場を目の当たりにした。
殺されたのは、俺が愛したひとを名乗り、実際、とても良く似ていたひとだった。そして、預けられた女の子も、愛したひとによく似ていた。
だから、とち狂った判断をしたとは思わないで欲しい。
俺がその時選んだ選択肢は、俺にとって、最良の判断だったのだから。
そのひとが殺される最中も、殺された後も、吐き気がこみ上げるくらい、綺麗で鮮やかな手際だった。
すれ違い様に首をボキリと折られ、崩れ落ちる彼女の体は左右から優しく支えられた。
両脇の男女に気遣われながら釣れられていく彼女は、どこからどうみても、終電間際の駅で酔いつぶれて介抱されている女性にしか見えなかった。
俺の横には、小さな女の子が残された。
何もわからない歳だろうに、すべてがわかっているかのように、俺の手をぎゅっと握った。小さくて柔らかな手だった。
心も体も冷えきって、立ちすくむ俺の左手だけが、温かかった。
その瞬間、俺はそれ以外の選択肢をすべてかなぐり捨てた。
警察に相談しよう、とか、児童相談所に預けよう、とか、そんな至極真っ当でバカげた考えだ。
俺は、しゃがんで女の子の視線に合わせた。
「お兄ちゃんのおうちに来る?」
女の子は、深い琥珀色の瞳を細めて、ふにゃっと笑った。
すべてを受け入れる大きな笑顔だった。
心臓をひっつかまれて激しく揺さぶられた。
守ろうと思った。
守りたいと思った。
守らなければいけないと強く思った。
「おにいちゃん」
無意識に抱きしめていたその時から、俺は、亜弥の「お兄ちゃん」になった。
了
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