967人が本棚に入れています
本棚に追加
悲惨なのはむしろ城内の方であった。
長雨によって食糧も尽き、餓死するものが続出していた。
さらに司馬懿の築いた櫓から矢が射込まれる。
これにはたまらず公孫淵の将・楊祚らは司馬懿に投降した。
公孫淵も追い詰められ、和議を結ぼうと司馬懿に使者を送った。
しかし彼は即座に使者を斬り捨てて言った。
「わしは侯の爵位にあり、陛下から仮節(死刑を決める権限)を授けられ、勅命を受けて来ている。和議などとは冗談にしても不愉快だ」
公孫淵は焦って、さらに人質を出すから許して欲しいと使者を送った。
司馬懿は言った。
「この期に及んで降伏も出来ぬとは…。もはや汝が助かる道などない」
八月二十三日、ついに遼東軍は崩壊した。
公孫淵は子を連れて逃亡を図ったが、司馬懿はこれを急襲して彼らを斬り殺した。
さらに襄平を一気に攻めて陥落させ、七千人に及ぶ首級を上げた。
司馬懿は戦勝を宣言し、その首級を積んでさらし、人々はこれを「京観」と呼んだ。
彼はその後もカン丘倹に遼東郡・帯方郡・楽浪郡・玄菟〈ゲント〉郡を制圧させ、ここに「遼隧の戦役」は終結したのであった…
最初のコメントを投稿しよう!