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ラピスという少女がこの家に住んでいるというのは、屹度聞き間違いだ。ニッケルは有り得ない可能性を少しでも信じた自分に、急に恥ずかしさを覚えた。すぐさま踵を返し、自転車にまたがって學校へ向かった。
教室の中は、休暇中に蓄えられた陽気の埃っぽいにおいで満たされていた。ニッケルはこのにおいが、嫌いではない。夕刻の温室にも似て、一日やその季節の時間がすべて詰まっている氣がするからだ。
ニッケルは級友との挨拶もそこそこに、窓際の列の、真中ほどの自分の席へかけた。大概、窓側の席というのは、生徒にとって不利なようになっている。初夏から初秋にかけては容赦ない日差しが差し込み、冬は冬で寒氣の入り口、暖氣の出口となる。今日もまだ八時を過ぎたばかりだというのに、早速ニッケルの左頬を朝日が照らしている。頭がぼんやりとして、教師の話も碌に聞けないだろう。散々な一日になりそうだ。
始業の鈴(ベル)が鳴るとほぼ同時に、ひとりの男子生徒が勢いよく教室に飛び込んできた。彼こそ、ニッケルの待ちわびていた友人である。彼はニッケルの姿をみとめると、一瞬睛を見開いた。そのままニッケルの隣の席まで歩いてくる。
「真朱。遅かったじゃなかったか、今日は来ないのかと思ったよ」
「ニッケル……夏休み前に、」
真朱の声が微かに震えている。ニッケルには、彼の微妙な変化を感じ取ることができた。
「ぼくがどうかした、」
ニッケルは不安を顕わにする。
「いや、何でもないよ。それに、毎年登校日には顔を合わせているじゃないか」
真朱は快活に笑い、鞄の中から筆記帖(ノート)を取り出した。表紙には、黒い洋墨(インク)で『夏季の天体と流金の連動について』という表題が書かれている。この年頃の少年にしては、かなり流麗な手だ。
真朱は幼い頃から書きかたを祖母という人から習っており、几帳面な印象を与える字を書く。しかし、普段の人柄からしてそうかというと、必ずしもそうではない。寧ろ、どちらかというと、がさつでこだわりのない性格の少年だ。「字は人なり」という言葉は、真朱に限ってはまったく適用されない、とニッケルは常々思っていた。
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