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 円く満ちた月は、剥離した雲母(きらら)のような薄い姿で、穏やかな光を落としている。真夜中を過ぎて寝台を抜け出したニッケルは、裸足のまま露台(テラス)から庭へ出た。青々とした芝生は月を浴びて、天鷲絨(びろうど)のように艶めいた。夏が近付くにつれ、草は芽吹いた頃の柔らかさを喪い、盛夏の今は針のような様子で佇んでいる。尖った草が、しばしばニッケルのくるぶしやあなうらを刺した。  庭の隅に置いてある長椅子(ベンチ)に、ニッケルは腰を下ろした。鉄に青錆塗料を吹き付けた頑丈な作りになっている。背もたれには葡萄の蔓を模した透かしが細工してある。祖父が古道具屋から仕入れてきたものだ。樫の座面は、昼間のうちに吸い込んだ太陽の香りを夜露の湿気と共に吐き出していた。芝生の地面が放つ土の匂いと相まって、庭じゅうに満ちていた。微かに、裏庭にめぐらせた生垣の素馨の香りが混じっている。重い風が、ニッケルの額や頬を舐め、煉瓦の壁を這う蔦蔓をざわめかせた。  空氣の流れが変わったのだろうか、りろりろという川の音が届いた。川といっても、街の西外れにある湖から引かれている疏水だ。しかし、街の人々は便宜的に川と呼んでいる。ニッケルはしばらくその音に耳を傾けていたが、突然、こんなことはありえない、と氣が付いた。この辺りで一番近くの流水は學校の脇を流れるものだが、家から學校までは自転車で十五分ほどかゝる。いくら夜合歓(ねむ)が話す聲の聞こえるほど静かな夜とはいえ、そんな処の水音が届く筈がない。 「空耳だ。」  ニッケルは自分に言い聞かせるように呟き、寝台へ戻った。川の話す聲はまだ続いている。庭にいたときよりも、幾分はっきりと聞こえてくるようだ。多少暑いのを我慢して、肌掛けを頭の上までかぶった。しかし、意識の外へ出せば出そうとするほどに、水音はすぐそこを流れているように聞こえてくる。仕舞いには、寝台のすぐ下が川ではないかと思えるほど、はっきりしたものになった。ニッケルはその音を聞いているうち、強い眠気に襲われ、意識を喪った。
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