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湖面に吸い寄せられるようにその樹は斜めに傾き、水際に立っている。
その枝葉は湖面に触れるかどうかというところまで垂れ下がり、細い幹はようやくその重さを支えているといったように見える。
風もなく、枝葉の向こうに見える月の光と藍色の夜空、そして水の碧さだけが誇張されたその絵画に動きはない。
聞こえるのは、時折鳴く鳥の声と湖水中央に浮かぶ城の中から湖面を渡ってくる人々の賑やか声だけであった。
城の背後には山々が連なり、その一面にいくつもの篝火が見える。
その明かりは湖面に映り、それが何とも美しく、この場が戦場であることなど忘れてしまいそうな光景である。
私はもう一度、水際に立つ樹に視線を移した。
するとそれを待っていたかのように、湖面に突き出した枝から一枚の葉が音もなくひらひらと落ちていく。
風もない夜なのに、何故あの葉は枝から離れたのだろう。
根元を虫に食されたのだろうか、それとも栄養が十分でなく枯れていたのであろうか。
どちらにしろ今夜、このときがあの葉の寿命であったのだろう。
その葉はタンポポの種のように音もなく水面に触れた。
しかし、それだけ優しく触れたにも関わらず、湖面はその葉を中心にして揺れ始め、その揺れは波の輪を二重三重につくり広がっていく。
その小さな波によって、それまで美しく映し出されていた篝火は滲み、静かに水面で眠っていたアメンボまでが追い立てられるように逃げていく。
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一枚の葉によって、それまで絵画のように動きのなかった光景が次々と変化していく…。
あの光景を目にしたとき、私はおぼろげにもそれを悟ったのかもしれない。
「悟った」と述べたにもかかわらず、それに「おぼろげにも」といったあやふやな表現を付け加えたのは、まだそれを確信していないということなのだろう。
だからこそ私は今、この物語を書き始めようとしている。
これを書くことによって、自分の頭の中を、いやあの時代で感じたことを整理し、これから自分は何をすべきか考えようとしている。
つまり、これは本来読者のために書かれた小説ではなく、私自身のための記録書ということになる。
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