傘が無い

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目の前にまた、猫が現れた。 こいつは・・・デブ猫だ。 自分勝手で、我が儘な猫。 馬鹿にしたように鳴く声。 でも、何かが違う。 『なっ!』 甘えない鳴き声。 守って欲しいくせに言い出せない。 不器用な猫。 誰かにそっくりだ。 そのデブ猫がゆっくりと姿を人間に変えていった。 この世で一番会いたい女性に。 『いつまでもウジウジしてんなよ。男だろ?』 可愛げの無い台詞も、こいつのなら受け入れられる。 『俺、どうかしてたわ。』 ぼそりと呟いて目が覚めた。 『おや、やっぱり起こしてしまいましたか。』 そう、店主の声がしたのと、 『なっ!』 と、デブ猫が鳴いたのが同時だった。 髭剃りはすでに終わっていて、俺の腹部にずっしりとした重しが乗っていた。 『フクの奴、何度降りろと言っても聞かないんですよ。こんな事初めてでして・・・』 『いえ、良いんです。』 俺は二度、三度とフクの頭を撫でた。 『なっ!』 『世話の焼ける男だ』 俺にはそう聞こえた。のしっと重そうな音を立てて床に飛び降りたフクはそのまま店の外へと出て行った。 『自由気ままですね。』 『はい。それが猫ですから。』 『ですね。・・・すいません、お会計は?』 『今日はサービスです。失礼にもお客さんで大笑いさせて貰いましたからね。』 『あぁ、ありがとうございます。』 頭を掻いて答えると、ラジオから井上陽水の「傘が無い」が流れてきた。
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