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「どうしたの?」
急に黙り込んだ俺を覗きこみながら母は声をかける。
ほんの少し…躊躇しながら俺は母に思いを伝えた。
「あの…さ」
「なぁに?」
「…俺……。…ちょっと行ってみたいんだ」
母の表情が心なしか硬くなる。
「…どこに?」
「…施設の…あった街…」「……」
重い…重い沈黙がリビングを支配した。
自らの呼吸が、鼓動が煩いほどに大きく聞こえる。
テレビの音さえも耳には入らない。
なぜ俺はこんなにも緊張しているのだろう。
ただ少しだけ、幼い頃にいた場所に行ってみたいと告げただけなのに。
握り締めた手に汗が滲む。
時間にすればほんの数分、いや数秒だったかもしれない。だけど俺には途方もなく長い時間に思えた。
「ふぅ…」
永遠に続くかとも思えた沈黙は、母の溜め息と共に破られた。
「久遠の、やりたいようになさい」
少しだけ泣きそうな笑顔を浮かべたが、はっきりと言った。
俺はこんなにも儚く笑う母を見たことがなかった。そしてそんな笑顔を浮かべさせてしまった自分に対し蔑む感情を覚える。
でも、それ以上にもっと強い、確信ともとれる何かがあった。
だから俺も笑顔をかえす。
「ありがとう」
…と。ほんの少しの期待とたくさんの不安をその笑顔のうちに秘めて。
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