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「あのね。」
浩太の目を見ることができない。
優しさを纏わり付かせ
「ん?」と先を促す浩太の目を。口を。車内に流れる音を変える、その、しなやかな指を。
もう、見なくても感じる浩太のその全てを見てしまったら。
私はもう。 うまくは話せない。
喉の奥には、火の塊が熱く揺らいでいて、息苦しくて、その熱さが上り詰めるのは何故か目で、フロントガラスは、ぼやけて滲んで見える。
喉が痛くて仕方ない。
「もう会わない方がいいと思うの。
このままでは 駄目だと思うの。」
言葉は。
選ぼうとすればするほど言葉を成す意味さえ曖昧になってしまう。そんな言葉がこの世界に存在しているのかもわからなくなってしまう。だから、言葉にする声さえ発することが難しい。
「離婚を…… して。いろんなことが落ち着くまで。
私。。浩ちゃんに甘えてばっかりで。頼ってばっかりで。
考えてみたら、浩ちゃんに逃げているんじゃ…ないかなって。
これでいいのかな。」
一歳になったばかりの空を思う。
空に対する罪悪感。
夫以外の人に特別な感情をもつ。もう既に、浮気など軽く言えるものではなくなってしまっている。だからこそ。
終わらせなきゃいけないこと。
自分を抑制できる唯一の手段。
仕事が終わって、電車が走り出すまでの僅か10分が一日の全てだった。
私の全てだった。
夏の全てだったし、冬の全てだった。
たった10分のために、浩太は毎日、会いに来てくれた。
浩太が待つ駐車場へと走る。窓越しにノックをして、体を沈め仰向けに横たわる浩太を起こす。ロックを開けてくれるまでの一秒にも満たない、その時間すら、とても長く遠く感じた。心臓が体の、皮膚の表面、外側に直接ついてしまっているような気がしていた。
嬉しくて、体全体が収縮してしまうと本気で思っていた。
「加奈。」
それはすごく。
柔らかくて問いかけとも言えるひらがなの発音。
ひらがなで発する浩太の声が愛おしく、お揃いのドラッカーの香りを自分とは少し違った形で放つ浩太を抱きしめたくなってしまう。だって、それ以外に何が出来たのだろう。傷を負い、傷をさすりあう姉弟のように。巡り会った全ては、初めから始まっていたんだ。
だから。
強く抱きしめるしか、私には出来なかったし、浩太はそれをもっと強く、優しく包む。
こんな自分の姿は、自分への嫌悪と軽蔑に繋がる。家庭を持っているのに気持ちを抑えられずにいる自分。
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