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ソ連軍は一大反攻作戦を展開することに決定し、その開始日を3年前のバルバロッサ作戦と同じ6月22日とした。
中央軍集団の正面に南から第1白ロシア・第2白ロシア・第3白ロシア・第1バルト・第2バルトの各正面軍(189個師団)を配置した。
そして1944年6月22日未明、空爆とともに三方向から中央軍集団に攻撃を開始した。
急進するソ連軍に戦力の劣るドイツ軍は各所で分断され、統一した作戦の元に、連携して反撃することさえ困難だった。
特にボブルイスク、モギレフ、ウィテブスクなどでは師団単位で包囲されて降伏し、7月3日までには白ロシアの首都ミンスクがソ連軍の手により奪回された。
この日までにドイツ軍は25個師団が壊滅したとみられている。
ソ連軍は休むことなく進撃し、7月13日には最前線がイドリツァ~ビリニュス~ピンスクの線に到達、28日にはカウナス~ルブリンの線に達した。
北方では、第1バルト正面軍がラトビアのリガ湾に達し、一時ドイツ中央軍集団と北方軍集団を分断することに成功した。
八月にはワルシャワ東方20㎞のビィスワ川東岸まで進んでいる。
作戦前、兵力90万人とされたドイツ中央軍集団は45万人を失い、壊滅した。
ソ連軍は70万人の死傷者を出したが、引き続きバルカン半島、バルト三国解放作戦を進めることになる。
さらに、大戦後を見据えて、ソ連は7月23日モスクワで設立し戦後ポーランド共産党の母体となる「ポーランド国民解放委員会」(PKWN)を占領したばかりのルブリンに移転した。
画像はT‐34/85中戦車です。
大戦初期には後れをとったソ連軍だが、後期に入ると兵の質も向上して、またドイツを遥かに凌ぐ生産力により戦車も次々と送られた。
T‐34/85は火力・防御力ともに世界トップクラスの実力があり、いかにドイツの主力戦車パンターが強力であろうとも、その数の前にはどうしようもなかった。
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