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イギリス軍は1941(昭和16)11年17日にクルセーダ作戦を開始した。
この作戦はトブルク包囲の解除を目指すもので、アメリカ製のスチュアート軽戦車165両を含む800両の戦車が投入された。
これにたいして枢軸軍の戦車500両以下、ドイツ戦車はその半数以下で、88㎜高射砲も35門しかなかった。
戦闘は消耗戦となり、数に勝るイギリス軍は27日にトブルク守備隊との合流に成功。
12月5日にはロンメルは撤退を決意して、23日の撤退終了までにはキレナイカのほとんどがイギリス軍の占領下となった。
翌1942(昭和17)年にイギリス軍はトブルク西方にボックスと呼ばれる方形陣地を連ねた防衛線ガザラ・ラインを構築した。
そして後方に、アメリカからレンドリース法に基づいて供与されたM3中戦車グラントなど多数の戦車部隊を予備として置いていた。
ロンメルは5月27日ガザラ・ライン南側を迂回して攻勢を行なった。
イギリス軍はライン後方の戦車部隊を投入したが、部隊間の連携が上手くいかず、88㎜高射砲と連携したドイツ軍戦車部隊に各個撃破された。
だが数量で劣る枢軸軍も戦車約100両までに息切れ寸前まで追い詰められていた。
ところが6月12日にイギリス軍の一部の部隊が撤退を開始して、これをドイツ軍が追撃した。
これをきっかけにガザラ・ラインは崩壊し、イギリス軍全体が潰走状態になった。
勢いにのったロンメルはトブルクを攻撃し、6月21日に陥落させた。
〓アフリカの女王・マチルダⅡ
78㎜という厚い装甲をもつイギリス軍の歩兵戦車マチルダⅡは、アフリカの戦いの初期において枢軸軍の砲弾をことごとく跳ね返し「アフリカの女王」と呼ばれるがドイツ軍の切り札、88㎜高射砲の前には無力であった。
〓イタリア戦車部隊の活躍
枢軸軍にとって、数の上での主力戦車がこのイタリア軍のM13-40中戦車でした。
総体的には必ずしも優秀とは言えないが、マチルダⅡ以外のイギリス戦車には十分有効ではあった。
砂漠を進むⅢ号・Ⅳ号戦車
砂漠の戦いは、海の戦いにも似て、広大な砂漠で敵の姿を見つけるのは非常に難しいからだ。
こうした砂漠の特性をいかし戦車の機動力をフルに活かしたロンメルの戦術抜きには語れない。
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