視線が怖い

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日を追うごとに、僕は「微かに笑う心に蝕まれていきました」 《平常心》この当たり前の感覚を次第に忘れ去っていきました。 クラスメートも徐々に僕の《異変》に気づき始めたようで、僕に話しかけてくる友人も少なくなっていました。 この頃になると、先生の視線が怖い、両隣の席の人の視線が常に気になる。 ノートをとる時に顔を上げられない等、明らかに、病的な症状が出始めていました。 この頃、僕の心の領域を大きく占めていたものは、「今どんな表情しているんだろう?」 常にこのことを考えていました。 結局、人が怖いのではなく、人に変な奴と思われるのが怖いのです。 だから人の視線を避けるようになるのです。 症状が出始めてからも、頑張って登校していましたが、クラスメートの心に突き刺さる言葉に限界を感じました。 「大輔、いつも笑ってるよね」 「大輔、目が変だぞ」 「大輔、何か気持ち悪いよね」 これらの言葉が、人を笑わせるのが好きだった僕のエネルギーを奪い去りました。 クラスの子と交換日記をしていた僕の希望を奪い去りました。 学園祭で、陽水を唄った僕を絶望の中に放り込みました。 もう学校には行けなくなりました。 母子家庭の僕は相談することも出来ず、結局、高校を中退し家にひきこもるようになりました。 この対人恐怖症は不思議な神経症で、家族には普通に接することができるし、目を見て話すことも苦になりません。 兄と母は働いていたので、朝から寝るまでテレビを見て過ごしていましたが、徐々に外に出たい!アルバイトがしたい! そんな心境になっていました。 母に許可をもらい、トンカツ屋さんでバイトをすることになりました。 注文取りと皿洗いが主な仕事でしたが、働いていると、大人になったようで心地良かっです。 バイトを始めて1週間位は覚えることも多いし、気が張っているので症状はあまり出ませんでした。 ところが、仕事に慣れた頃から症状が出始めて、結局2週間程で辞めてしまい、給料も母に取りに行ってもらいました。 この頃の楽しい思い出がひとつあります。 中学の時に、付き合っていたS子ちゃんと映画を観て、食事をしたことです。 不安もあったのですが、楽しい1日になりました。 それから暫くして、東京の叔父から電話がありました。
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