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バッハの無伴奏ソナタとパルティータを引っさげて、今回のコンサートツアーは一ヶ月かけてアメリカを一周する。
この再起の演奏は、最終地のNYにてライブ録音されて市場に出される予定だ。
初日のボストン。
加熱するマスコミや聴衆の目を気にすることなく演奏に専念できるように、ルドや僕の所属するCDレーベルのG社、そして主催者はかなり気を使ってくれている。
体調は万全には程遠く、リハーサルでも『シャコンヌ』を弾き終わると吐いてしまい、舞台袖には念のために洗面器が用意された。
吐き気止めの点滴に繋がれている僕にルドは言った。
「どうしてこんなに吐くほどに感覚に響くんだろな」
「……」
「でもな。美しいんだよ。バッハなんて腐るほど聴いてきているのに、これまでに聴いた事のないくらいの美しさだ」
そういうルドも時々吐いてしまって、彼も少し痩せてしまっている。
「俺は今回、音楽という芸術の恐ろしさを知ったよ」
「……」
決して『シャコンヌ』だけが原因で吐くのではない。
バッハの音符たち全てがそういう要素を持っている。
本番前になって燕尾服に着替えたけれど、かなり痩せたので上着がぶかぶかに感じる。
ズボンもサスペンダーがなければ本当に落ちてしまいそうだ。
それでも鏡に映った僕は”ヴァイオリニスト”だ。
ソファに座って”女王”を手に取る。
以前までなら”女王”に頬ずりし、唇を寄せていたのに、今はただ見ているだけだ。
”女王”も僕を挑発してこない。
彼女はただ、僕の望む音を忠実に出すだけだ。。
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