8.父の死

7/11
前へ
/106ページ
次へ
僕はひとつひとつ鎖を解いていかなくてはならなかった。 父の遺体が搬入された場所で見たもの。 神の創造物で最も美しいと信じて疑わなかった人間の本当の姿。 生臭い匂いと強い消毒液の匂いが混ざる部屋。 血に染まったシーツ。 滴り落ちる血。 呻き声。 怒号。 泣き叫ぶ声。 担架の上で息を引き取る人。 落ちている肉片。 そして父……。 僕はその断片を父と確認する前に気を失ってしまった。 サン・サーンスで聴いたあのヴァイオリンの音は一体何だったんだ。 悪魔なのか? いや、神だ。 完全な美を持つ神が人間を嘲笑したのだ。 単なる肉片にすぎない人間を“美”に姿を変えた神が嗤った。 僕は目を開けた。 白い天井が見える。 少しあたりを見渡すと部屋の隅にスーツケースとヴァイオリンケースがあった。 と、その瞬間に僕はベッドを飛び出し、ヴァイオリンケースを掴むと思い切り壁に投げつけた。 そしてケースのチャックを無造作に開け、赤い布袋に入った”女王”を取り出した所で誰かに羽交い絞めにされた。 「何やってるんだ」 ルドが僕の背中で呻いた。 「神が嗤えないようにしてやる」 僕は”女王”を掴もうと手を伸ばしたけれど、ルドに撥ね退けられた。 「あの音か……」 そうだよ、君も聞いただろう。 「あれを聴いて失神したのは君だけじゃない」 皆、わかっているんだ。 「数小節だがアレを聴けた人間は幸せだ」 幸せ? 「ブラッキンのブラッキンたる所以だ」 何を寝ぼけているんだ。 僕は最大の力を振り絞って駒からヴァイオリンを掴むと、それを壁に打ちつけようと手を振りかぶる。 でもルドがまたそれを止めた。 「家に帰ろう」 彼は僕を慈しむ声で言った。 家? 「マリィが待ってる」 そうだ、幼い妹はNYで留守番をしている。父のいない今、僕が彼女を守ってやらなくてはならない。 「いいか、帰る用意をするんだ」 ルドはふっと力の抜けた僕からストラドを奪うと、ヴァイオリンケースごと持って部屋を出て行った。 パタン…… ドアの閉まる音を聞いた途端に涙が溢れ、それと同時に吐き気が僕を襲った。 「うっ」 床に嘔吐しながら、その場でのたうちまわった。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6195人が本棚に入れています
本棚に追加