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僕はひとつひとつ鎖を解いていかなくてはならなかった。
父の遺体が搬入された場所で見たもの。
神の創造物で最も美しいと信じて疑わなかった人間の本当の姿。
生臭い匂いと強い消毒液の匂いが混ざる部屋。
血に染まったシーツ。
滴り落ちる血。
呻き声。
怒号。
泣き叫ぶ声。
担架の上で息を引き取る人。
落ちている肉片。
そして父……。
僕はその断片を父と確認する前に気を失ってしまった。
サン・サーンスで聴いたあのヴァイオリンの音は一体何だったんだ。
悪魔なのか?
いや、神だ。
完全な美を持つ神が人間を嘲笑したのだ。
単なる肉片にすぎない人間を“美”に姿を変えた神が嗤った。
僕は目を開けた。
白い天井が見える。
少しあたりを見渡すと部屋の隅にスーツケースとヴァイオリンケースがあった。
と、その瞬間に僕はベッドを飛び出し、ヴァイオリンケースを掴むと思い切り壁に投げつけた。
そしてケースのチャックを無造作に開け、赤い布袋に入った”女王”を取り出した所で誰かに羽交い絞めにされた。
「何やってるんだ」
ルドが僕の背中で呻いた。
「神が嗤えないようにしてやる」
僕は”女王”を掴もうと手を伸ばしたけれど、ルドに撥ね退けられた。
「あの音か……」
そうだよ、君も聞いただろう。
「あれを聴いて失神したのは君だけじゃない」
皆、わかっているんだ。
「数小節だがアレを聴けた人間は幸せだ」
幸せ?
「ブラッキンのブラッキンたる所以だ」
何を寝ぼけているんだ。
僕は最大の力を振り絞って駒からヴァイオリンを掴むと、それを壁に打ちつけようと手を振りかぶる。
でもルドがまたそれを止めた。
「家に帰ろう」
彼は僕を慈しむ声で言った。
家?
「マリィが待ってる」
そうだ、幼い妹はNYで留守番をしている。父のいない今、僕が彼女を守ってやらなくてはならない。
「いいか、帰る用意をするんだ」
ルドはふっと力の抜けた僕からストラドを奪うと、ヴァイオリンケースごと持って部屋を出て行った。
パタン……
ドアの閉まる音を聞いた途端に涙が溢れ、それと同時に吐き気が僕を襲った。
「うっ」
床に嘔吐しながら、その場でのたうちまわった。
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