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僕は吐くものがなくなっても突き上げてくる吐き気に朦朧としていた。
ケンはとりあえず、出産が始まったという女の部屋の前へ僕とルドを連れて行き、
「お前程度の嘔吐じゃ死なないが、お産は命がけなんだ!邪魔にならないようにそこで大人しく水でも飲んでてくれ!」
と廊下の床を指差した。
まるで母の言葉を聞いてるようで、ルドも
「君の母君にそっくりな言い回しだな」
と苦笑した。
どうやらここは『娼婦の館』の中にある、住み込みで働く女達の為の住居フロアのようだ。
建物はお世辞にも綺麗とは言えないけれど、化粧を落とした非番の娼婦たちが部屋を出たり入ったりしていて、まるで学生寮のような雰囲気だった。
でも僕の目の前にある扉の向こうでは出産が行われている。
時折聞こえる「イタタっ!」という声と一緒に、ケンや他にも人がいるのだろう、複数の人間の笑い声も聞こえてくる。
僕はそんな中、廊下にへたりこんで頭の中に鳴り続ける『シャコンヌ』を聴いていた。
『シャコンヌ』は3拍子の舞曲で変奏曲だ。
同じテーマが64回繰り返される。
30代のバッハが出張に出掛ける際、とても元気に見送ってくれた妻のマリア・バルバラは、彼が帰宅した時にはこの世の人ではなかった。
10代の頃から恋人同士だったマリア……。
一本気で短気な性格のバッハは、職場では決して良い人間関係を築けていたとはいえない。そんな彼の、唯一安らげる場所だった妻が亡くなって、嘆きはいかばかりだったか。
敬虔なクリスチャンの彼は、そこで神を呪わなかっただろうか。
そしてバッハは一気に『シャコンヌ』を書き上げた。
激しく陰鬱なテーマ。
バッハは何を繰り返したのだ?
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