9.バッハ=シャコンヌ

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部屋に一歩足を踏み入れると、中はこれから起こることへの緊張感に覆われていた。 ベッドでは女性と助産師さんとおぼしき女性がヒッヒッフーと呼吸法をしている。 ケンがテーブルを指差して言った。 「そのベビーバス全部にお湯を入れてきてくれ。産湯に使うんだ」 「え?」 「頼むよ。いつも来る産婆の卵が風疹で人手不足なんだ」 医療用手袋をつけながらケンは真顔で言った。 そういえば産婦はもう出産の佳境で、僕の芸を見ているどころではない。 ケンのジョークに騙されたわけだけど、あれこれ言ってる暇はなさそうだ。 「そこらへんの部屋で貰ってきて」 部屋を見渡すと確かにバスがなく、備え付けのキッチンに給湯器はあるものの、すでに使用中だった。 僕とルドはそれぞれベビ―バスを抱えて他の部屋をノックしてまわり、たまたま非番の女の子からお湯を貰う事ができた。 「とうとう生まれるんだ~。で、パパはどっち?」 その女の子も先の子と同じ事を言った。 「いや、僕達は手伝いで」 「そうなんだ。お疲れ様~」 女の子はパタンとドアを閉めた。 「……」 お湯がこぼれないように歩きながら僕はつぶやいた。 「自分の子供が産まれるのに知らせてもらえない男がいるんだ」 「確かに愛人に子供ができるとある意味困るとは思うけど」 ルドも言う。 これが”愛人の美学”なのか? 確かに父親になる男の生活は何も変わらない。 妻がいて子供がいて。 そしてまたこの愛人を抱くのだろう。 そして飽きたら他の女のところにいくのだろう。 何も知らないから、何の良心の咎めを感じる事無く。 僕達が部屋の前に来ると、女のいきむ声が聞こえた。 「ほら、力抜いて!ハッハッハッって!!」 助産師さんの声がしたかと思うと 「おんぎゃ~!」 と小さな声が上がった。
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