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部屋に一歩足を踏み入れると、中はこれから起こることへの緊張感に覆われていた。
ベッドでは女性と助産師さんとおぼしき女性がヒッヒッフーと呼吸法をしている。
ケンがテーブルを指差して言った。
「そのベビーバス全部にお湯を入れてきてくれ。産湯に使うんだ」
「え?」
「頼むよ。いつも来る産婆の卵が風疹で人手不足なんだ」
医療用手袋をつけながらケンは真顔で言った。
そういえば産婦はもう出産の佳境で、僕の芸を見ているどころではない。
ケンのジョークに騙されたわけだけど、あれこれ言ってる暇はなさそうだ。
「そこらへんの部屋で貰ってきて」
部屋を見渡すと確かにバスがなく、備え付けのキッチンに給湯器はあるものの、すでに使用中だった。
僕とルドはそれぞれベビ―バスを抱えて他の部屋をノックしてまわり、たまたま非番の女の子からお湯を貰う事ができた。
「とうとう生まれるんだ~。で、パパはどっち?」
その女の子も先の子と同じ事を言った。
「いや、僕達は手伝いで」
「そうなんだ。お疲れ様~」
女の子はパタンとドアを閉めた。
「……」
お湯がこぼれないように歩きながら僕はつぶやいた。
「自分の子供が産まれるのに知らせてもらえない男がいるんだ」
「確かに愛人に子供ができるとある意味困るとは思うけど」
ルドも言う。
これが”愛人の美学”なのか?
確かに父親になる男の生活は何も変わらない。
妻がいて子供がいて。
そしてまたこの愛人を抱くのだろう。
そして飽きたら他の女のところにいくのだろう。
何も知らないから、何の良心の咎めを感じる事無く。
僕達が部屋の前に来ると、女のいきむ声が聞こえた。
「ほら、力抜いて!ハッハッハッって!!」
助産師さんの声がしたかと思うと
「おんぎゃ~!」
と小さな声が上がった。
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