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『シャコンヌ』冒頭。
アウフタクトで始まるニ短調の主和音。
その全ての音の内面をえぐりだすように、僕は弓を振り下ろした。
悲しみに支配された激しさ、しかしとてつもなく美しい主和音の響きに、僕の目に涙が浮かんだ。
メロディラインなどは今の僕には関係ない。
かわりに曲を作る全ての音の本性を表現しつくす。
その結果浮かび上がってくるメロディは、僕にとっては“終了後の結果”にしかすぎない。
人間の内臓や肉や血を表現するように、『シャコンヌ』の内面を、ひとつとしてごまかすことなく音にしていくのだ。
一見単純な八分音符のノンレガートも、その音を赤裸々に表現したときには、叫び出したいくらいの感覚を人に与える。
そう、僕の『シャコンヌ』は耳でも心でもなく、しかも知の介在すら入る余地のないまま、人間の感覚に直接響く。
そして”女王”は僕に何の要求をする事もなく、ただ無私に僕の音楽を音にしていった。
早いパッセージにきて僕の精神力は切れた。
音の洪水に眩暈がして、そして吐き気をもよおし、ストラドをベッドに放り置くとトイレに駆け込んだ。
娼婦の館で吐くだけ吐いているので出すものなんて何もないけれど、それでも便器に向かってえずいていたら、隣の個室からも「おえ~」と吐く音が聞こえてきた。
開いたドアの隙間から覗いてみると、ルドが便器の前にしゃがみ込んでいた。
彼は振り向くと
「お前のせいだぞ」
と蒼白な顔でつぶやいた。
ふたりで並んで便器を抱え込むなんて喜劇だ。
でも……、ルドは僕の音楽をわかってくれている。
手洗い場でうがいをしながら目の前の鏡に映っている彼を見た。
ジム・ブラッキンに人生を翻弄され続けてきた彼は、今も尚、僕の人生のピンチにも、やっぱり変わらず翻弄され続けてくれている。
タオルで僕の顔と、そして同じタオルで自分の顔もごしごし拭く彼。
そんな彼の胸に僕は顔をうずめた。
そして溢れる気持ちを託して言った。
「シャコンヌ、コンサートで弾くよ」
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