戦火

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1940年 昭和15年 八木教授達と鈴木たちが研究開発していた、レーダーが満州油田に運び込まれた。 まだ、メートル波での運用ではあるが、北海道で行われた予備実験では良好な結果が得られたと言う事だ。 「鈴木さんたち、今満州でそれも満州油田に居るなんて危なくないですか?」 「陸軍が全力で守ってくれるよ。箱根大学の頭脳だから、心配要らないさ。」 「それでも心配です。相手が赤軍ですから、無停止戦略採るかも」 「まだ、この頃にはないよ。東西冷戦の話だ。鈴木さんたちが持ち込んだレーダーは、PPIレーダーらしいから、要員教育が終われば直ぐ日本に帰って来るだろう。センチ波の開発も進めて貰わないと、困るからね。」 オシロスコープを用いたレーダー運用では、熟練した要員が必要であったがPPIスコープでは、教育さえ受ければ誰でも運用できた。 満州でのレーダー試験はレーダー運用だけで無く、レーダーを使った飛行隊の指揮運用も計画されていた。 (ちなみに、当時軍ではレーダーと呼ばず、電波探信義と呼ばれてました。) 日本国内では、十二試作機の最終試験が行われていた。 翔鶴型の水進も済み艤装に入っていた。 5月、突然ドイツは奇妙な戦争の眠りを破るように、ベルギー・ルクセンブルク・オランダ、ベネルクス三国に侵攻更にオランダからフランスに侵攻する、電撃作戦を開始した。ドイツ・フランス国境からは、アルデンヌの森からフランスに侵攻するという、奇襲を架けた。 イギリス軍は大きく守備の左翼を迂回され、ドイツ軍に背後周り込まれるのを恐れた、イギリス軍は後退するしかなかった。 フランス軍は当てに為ていた、マジノ線の穴突かれあわてていた。アルデンヌの森の辺りは、50KMの間に76M砲がたった二門しか配備されていなかった。 森からの攻撃を全くフランス軍は考えていなかったのである。 ドイツ軍はマジノ線に篭った、フランス軍を置き去りにして、パリに進撃していった。 マジノ線を突破した。ドイツ軍に対し唯一反撃したのは、ドゴール将軍が指揮した列車砲のみだった。 こうしたドイツ軍の電撃戦に、イギリス軍もフランス軍も対応出来ず、ドーバーに面するカレーに追い詰められていく。
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