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背後から声がして、振り返った。腕を組んで、 黒いスーツを着て私だけを見ている。
ぶるぶる震えているのが、自分で分かった。
「懐かしいでしょ、私の妹」
どうして思い出せなかったのだろう。
「お久しぶりね」
そしてゆっくりと、噛み締める様に言った。
「相馬英里」
身震いがした。
とても静かな部屋なのに、音が消えた気がした。
久しく聞かなかった、自分でも思い出す事もなかった、私の昔の名前。
「半年くらい前かな。もっと前ね、たまたまつけたテレビを眺めてたら、忘れられない顔があった。やたら綺麗に着飾って、ニコニコ笑ってた」
怜香は近付いてきて、私は後退りした。
電話のジャックを抜いてコードを投げたけど、そんな事を気に掛けている余裕なんて、私には無い。
「私、あの時どんな顔してたんだろう。しばらく動けなかった、今のあんたみたいに」
声が、出ない。
「忘れていたものが、腹の底から蘇ってくる気分て、あんたに分かる?」
怜香は顔を近付けて、上目使いで言った。
「あれからあんたの事、調べてみたの。マスコミに流そうかとも思ったんだけど、それじゃ面白くないじゃない」
震えが止まらない。
「あんたは実の父親に……」
「……やめて」
「父親に、犯されたのよ!」
暗い記憶が、蘇ってくる。いくら振り払おうとしてもついてくる、暗い記憶。
──嫌だ、嫌!
「そんな事はどうでもいい、あんたが誰にレイプされようが関係ない」
事務的に、冷静に言ってのけた。
「血って争えないのね、親子揃って人殺しなんて」
「死ぬなんて思わなかった……!」
そう、自殺するなんて思わなかった。
私は、忘れたかった。例え短い時間でも、あの男の事を忘れる事が出来れば、それでよかった。
「あんたの母親、あんたの身代わりになってる様なもんじゃない」
身代わり?
「あんたは母親刑務所に追い込んで、テレビで笑ってる。とんでもない人ね」
「そんなつもりじゃ……」
「背中、出刃包丁で4回? 5回だっけ?」
やめて、もうやめて……。
私はへたりこんだ。
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