過去

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 そして、あの日。  あの男は、また私に覆いかぶさってきた。  ねっとりした唇の感触を首筋に感じて、物凄い力で胸を揉まれて、あまりの痛さに涙が出そうになった時、急にどすん、と体重が掛かった。  私の上でうめき声がして、何がどうなったか分からなかった。  背中に触ってみたら、ぬるっとした、暖かい感触がした。  赤い物が掌を伝っていた。それを見ても理解出来なかった。  事の事情がはっきりしたのは、肩の向こうの母親を見た時だった。  両手で血の付いた包丁を頭の上にかざし、白いニットとスカートに返り血を浴びて、青い顔をして立っているお母さん。  ──英里、どかんね。  私はただ、黙って見ていた。  あの男の背中に包丁が刺さるのを、お母さんの顔が血で真っ赤に染まるのを、警察が手錠をかけてパトカーに乗せるのを、私を別の車に乗せて署に向かおうとしているのを、呆然と眺めているだけだった。  車の中で、ぼんやりとお母さんの言葉を思い出していた。  ──お父さんは酔っ払ってお母さんば殴ったと、それで刺したと、それだけ。  ──だってお母さん、そいば……。  ──英里ば何も言わなくていいと、何もなかったと。あんな男のために、人生棒に振る事はなか。  これから先の事なんて、考える余裕はなかった。  弁護士さんや、児童福祉の人に言われるまま、遠縁の安積の家に引き取られて、義理の両親の目を掠めて、お母さんに会いに行った。  本当の事を言えば、お母さんの罪はもう少し軽くなっただろう。  でも私は言えなかった。刑事や弁護士にも、ましてや裁判の証言台でも言えなかった。  結局、私は自分が可愛かったんだろう。 「あんたは二人の人間を殺したのよ」 「二人?」  少し間を置いて、怜香はつぶやく様に言った。 「私のママは香澄が死んだショックでノイローゼになって」  そして、私を見ながらはっきりと、 「睡眠薬を飲み過ぎて死んだのよ」  私は立つ事が出来なかった。震えながら怜香を見上げていた。 「ママはベルガモットの香りが好きだった。ねぇ、今日が何の日か、あんたに分かる?」  首を振った。
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