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水はだめだ。
水の中には・・・。
ガシャーン
グラスの割れる音に私ははっと我にかえった。水飛沫に一瞬すくみつつはっとした。
「す・・・すみません。あの、水はいらないです」
店員は嫌な顔せず手早く片付けると頷いた。申し訳ないと思いつつ財布の中身を見ようと鞄を探す。
・・・ない。
瞬間血の気がひいた。
どこかに忘れてきたのだろうか。落ち着け、と私は自分に念じる。
とにかくどこを通ったか思い出そうとする。
・・・。
思い出せない。
電車を使ったのか、徒歩なのか。
そもそも鞄を持って出たのか。
そして・・・。
「失礼します」
店員の声にはっとする。今はそれどころではない。目先の問題は財布がないことだ。
先程のグラスの弁償もあるし。とりあえず事情を話して後日改めて払うしかないか、と考えた。
そんなことを考えていると店員は白いティーカップをテーブルの上に置いた。
頼んでないけど。否、とりあえず代金も支払える状態ではない。
「あのー」
遠慮がちに口をひらく。恥ずかしいが財布を忘れたことを伝えた。
恥ずかしさも手伝って私は早々にこの場を立ち去ろうと腰を上げようとした。
「代金ならいいですよ」
店員は私を制止しそう告げた。外に視線を向けて続ける。
「まだ停電もなおってない様子ですしゆっくりしていってください」
そう言って目の前のティーカップをすすめる。
とはいえまさかお金も払わずグラスまで壊したあげく呑気にお茶を戴くわけにはいかない。
さすがに断ろうとすると、店員が先に口を開いた。
「そうですね。それではお代の代わりに何か話しでも聞かせてもらえませんか?」
停電のおかげで暇なんです。と、苦笑しながら。
変な申し出だ、と思いつつ何故か私は断らなかった。
断れなかった。
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