一章

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  「いらっしゃいませ」 チリンチリンと、可愛らしい鈴の音と共に入ってきたお客。 しがないパン屋にしては上品で静か過ぎる声音で、男は声をかけた。 ここに来る客は、常連が多い。知り合いに会ったような暖かな笑みを向けられて、客も自然微笑みを浮かべる。 その様子を奥の工場の方から無表情に眺めている人物がいた。 「まだ焼き上がらないのか」 顔に貼り付けている笑みとは正反対の無機質さで、男は店の奥にいる存在に小声で問いかけた。 「急かした所で焼き上がりは変わらない」 それを同じく冷たい口調で突っぱねると、踵を返して奥に引っ込む。 男は目の前の客に悟られないよう、微かに溜め息を洩らした。 「あのぅ…」 と声をかけられ、客が指差す方を見ると、たった今急かした商品の陳列棚。 「あとどのくらいで焼き上がりますか?」 男は心の中で再び溜め息を吐くと、穏やかな笑顔を浮かべ、いつもの“尻拭い”へとかかった。  
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