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 吐き気を呼ぶような生臭い匂いで私の意識は覚醒した。恐怖を超えた感情に、私は何故か落ち着いていた。きっと、そのあまりの大きさに、私の脳は全てを受け入れるのを拒否したのだろう。だから、ここ数分の記憶が一瞬の間欠落し、私はまるで毎朝の起床のように穏やかに瞼を持ち上げることができたのだ。  そこにあったのは、紛れもなく、私が作った現実だった。  辺りには肉と血が飛び散って、赤い華を咲かせているように見える。雲ひとつない空には満月が寂しげに浮いていて、月光に鈍く照らされた血がこの場に似つかわしくない幻想的な雰囲気を醸し出している。湿った空気が蔓延し肌に纏わりつく。まるで異世界に来てしまった気分。或いは夢か。そうだと良いのに。  うまく思考が働かない。この異様な景色が、私の全ての正常さを奪ってしまったようだ。ただ、身を震わす悪寒と荒くなっていく呼吸を、私の外で感じる。まるで体と心が切り離されてしまったかのように。    私は何をした?  記憶が蘇る。荒い映像が流れ始め、そして段々と鮮明になっていく。胃液が逆流し、私は抗わずにそれをぶちまけた。少しも楽にならない。  私は何をした?  事の始終を見届けたのは月だけのようだった。それは私にとってある意味救いではあるけれど、同時に諦めを強制してくる。  どうしてこうなってしまったのだろう。何故私なんだろう。運命とか、そんな発想は下らないと思う。けれど、これを運命として片付けることしか出来ない自分がいる。その”運命”を恨む自分がいる。何て理不尽。  とにかく誰かに助けて欲しい。弱い私。でも仕方が無い。私一人だけではどうしようもないのだ。  本当は、頼るべき人を私は知っている。でも彼を正面にした時、まともでいられる自信が無い。私は彼を許せない。彼は何もしてはいないというのに。これは、彼にとっての理不尽。  理不尽。  理不尽。  泣きたい。  誰か。  駄目だ。  でも。  映像。  吐き気。  泣きたい。  視界が歪んで、体はバランスを失った。私は地面に膝をつき、両手をつき、そのままアスファルトに全身を任せた。  もう疲れた。結局どうしようもない。私は思考することを放棄して、目を閉じる。  霞む意識の中で彼女が呼んでいるのがわかった。都合が良い。替わってあげよう。  そのまま、私はもう一度意識を手放すことにした。
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