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呼吸が荒くなっていくのを感じた。汗が頬を流れ落ちてアスファルトに小さな染みを作った。状況と本能が、この先は危険だと訴えている。行けば何らかの事件に巻き込まれるのは明らかだ。
しかし、一方で僕は信じられないほど冷静だった。目の前の光景より、むしろその事に驚く。
大きく息を吸って、吐く。落ち着いていく呼吸。一歩を踏み出す。僕は角を曲がった。
“そこ”に着いて最初に受けた印象は、「紅い」だった。“そこ”の中心から円を描き飛び散った紅。視界を真っ赤に染める紅。爆ぜた血液。
眩暈が襲う。目を瞑り、手の平を額に押し付けて思考の停止を食い止める。
もう一度深呼吸をして目を開けると、一人の少女を見つけた。整った顔立ちに腰下まで伸びた髪。細い身体つき。歳は僕と然程変わらないだろう。“そこ”の中心に立って空を仰いでいる。頬を水滴が伝っていくのが見えた。
酷く歪んだ光景だった。
彼女の服も肌も髪も全て血で染まっている。だと言うのに、彼女は笑っていた。ひどく妖艶に、何かに酔いしれるように。
“そこ”は背徳的な美しさに満たされていて、僕は暫くその光景に見入っていた。時間の流れが遅くなる。それは数時間にも感じる長さだったけれど、その間彼女の姿勢は変わらなかったし、空も黒いままだったので、本当は数秒程度だったのかもしれない。
彼女の視線はやがて落ちて行き、左に振れて僕に辿り着いた。真っ黒な瞳が僕を捉える。
「何が嬉しいの?」
ポロリと零れ落ちた言葉。
彼女は首を振る。
「何も嬉しいことなどないわ」
「何が悲しいの?」
「わからない。わからないくらい沢山のことが悲しい」
彼女はもう笑ってはいなかった。涙だけが溢れ流れていく。
「でもね、もう大丈夫」
「どうして?」
「あなたが来たから」
「よくわからない」
「もうすぐわかる」
彼女は俯いて、手の甲で涙を拭った。もう一度上げた瞳は少し充血して赤かった。
「あなたが来たから、悲しいことが減って、嬉しいことが増える。きっと、そうなる」
「それは良かった」
彼女は小さく微笑んだ。僕も笑い返す。よくわからないけれど、そう言われて嬉しかった。
彼女は背伸びをして、自分と僕の額をくっ付けた。鈍い衝撃が頭を揺らした。
そして、僕の視界はブラックアウトした。漂う鉄の匂いだけが、最後まで付きまとっていた。
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