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彼女は自転車を光らせながら軽快に前に進んでいく。静かに回る車輪の音が自転車の調子の良さを物語っている。
俺は少しずつペースを上げ、彼女の真後ろについた。自転車競技において一番の障害は、空気の壁。すなわち"風"である。
勝つための戦略の一つとして、長距離移動をする渡り鳥のように、前を行く者を風避けにするのだ。
そして、抜く時は奇をてらって突然に全速力で。これがセオリーだ。ママチャリレースにおいては、ロードレースのような紳士さは必要ない。
「本気を出すぜ!」等と言って相手に勝負時を知らせるのは阿呆のする事。スピードを上げる前に進路を塞がれてしまう。静かに近寄り静寂の中で疾風のようにするりと。
抜く時は、その時に持てる力全てを出し切るぐらいの気持ちでこぐべし。中途半端に相手に並んだり半身前に出たりするのは、いたずらに相手の闘争本能をくすぐることになる。
気が付けば抜かれていて、速すぎて今からでは追い付けそうにない。こう思わせることが最善の勝負運びなのである。
俺は、障害物が無くなり道が広くなった時、最善の運びを始めた。
彼女の後ろから少しずつ右にずれつつ、スピードを上げる。ペダルをひとこぎする度に二台の差は縮まっていく。
もう少しで彼女の視界に入る、というところで俺はサドルから尻を持ち上げた。渾身の力を込めた立ちこぎ、自転車用語で言うところのダンシングである。俺の大腿筋が火を吹いた。
しかし、次の瞬間、俺は大きくバランスを崩し、サドルに尻を強か打ち付けた。痛い。とっても痛い。
なんと、彼女が車体を右に傾け、俺の進路を完全に塞いだのだ。進路妨害のタイミングとしては完璧で、黒い自転車の上がったスタンドが青戸号の前輪にぶつかった。結果として俺は進行方向右に大きく逸れ、危うく植木に突っ込むところだった。
「キミのチャリ、油差したほうがいいね」
振り返った彼女はそう言って、小さく笑った。
彼女は俺がスパートをかける瞬間を完璧に読みきっていたのだ。恐らく小さな小さな青戸号の呼吸音を聞き逃さなかったのだろう。
俺は確信した。こいつは手練れだ。
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