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川西が自主開発に踏み切った理由には、当時進められていた、十四試陸上攻撃機計画が深くからんでいる。
この日本初となる4発攻撃機は、中島飛行機の設計で進められていた。
しかし、航空技術が発達したとはいえ、4発の大型機が離着陸できるような大規模飛行場は官民共に限られていた。
まして主戦場となる、未開の太平洋の島々に、このような大型機が運用できるような飛行場を造ろうとすれば数ヵ月の時間を要す。
これらの点に川西は目を付け、そして揺るぎない地位を獲得した飛行艇で売り込む事を決めた。
飛行艇ならば、波の静かな入り江さえあれば、進出は容易。整備隊を送れば、すぐに基地として運営できる。
また爆撃、偵察といった攻撃的任務だけでなく、不時着水した搭乗員の救助、孤島への補給物資の輸送、重症者の後方への輸送にも使用できる。
以上を売りとして、川西は九七大艇の産みの親、菊原静男技師を主任とした開発班を起ち上げた。
開発班は、それまでに得た経験、知識を遺憾なく発揮。
結果完成した試作機は、
航続距離最大7000キロ、
最大速度478キロ、
爆弾は満載で、250キロ爆弾10発、もしくは800キロ爆弾2発、魚雷2本搭載可能という、前作を上回る高い性能を見せつけた。
この性能に狂喜乱舞した海軍は、中島の機体を深山という名で採用すると共に、本機も正式採用。
一式大型飛行艇として、量産が開始された。
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