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93年だったか94年だかに弟が小3の時に車に跳ねられて乗ってた自転車の カゴからGBが転げ落ちて、アスファルトで削られボロボロになったんだよ。 弟が病室でボロボロになったGB見て泣きながら電源入れたんだよ。 カチッ・・・ピコーン。それでも起動すんのな、GB。 それを修理に任天堂に送って数日後、任天堂の人から電話があったらしいのな。 「あまりにも凄い事になってるから、原因を聞きたい」とかなんとか。 母が「息子が事故にあって」って言うと修理費はいらんと。 結局こっちが負担したのは送る時だけの送料だった訳だよ。 その時は「すげーなー」位の感想だったんだが、就職して社会とか 商売ってのが少しずつ判りだしてから、子供相手の商売ってこう言う事 なんだなと思った。どこぞの偉いさんは、お子ちゃま向けと言ったが 子供相手に商売するって事は、子供の後ろにいる親に商売するって事なんだよ。 この一件で一番驚いたのはメモに直筆で「○○君へ、車には気をつけてね。横井」と あった事なんだよ、もしあの横井さんならなんて皮肉なんだろうと思う。 ※横井軍平 任天堂の後1996年8月15日、横井は長年勤めていた任天堂を退職。「バーチャルボーイの不振の損失の責任を取るために辞任を迫られた」「山内社長のワンマン体制に横井が嫌気が指したため辞任した」という俗説がまかり通っているが、実際はその件と無関係な自主退社である。事実、横井が任天堂社員として最後に開発した「任天堂への恩返し」である『ゲームボーイポケット』は、『ポケットモンスター』のブームに応える形で大ヒットした。本人は元々「50歳を過ぎたら好きな事をする」と語っており、ゲームボーイポケットは古巣への置き土産だったとも言われる。「バーチャルボーイを置き土産に退社する予定だったが、不振に終わったのでゲームボーイポケットを代用品として作った」とする資料も存在する。 その後、より自分のやりたい商品開発を目指し、株式会社コトを設立。『くねくねっちょ』等の携帯ゲームや玩具などを企画した他、『ワンダースワン』の開発にもアドバイザーとして参加。ワンダースワン用のパズルゲーム『GUNPEY』は横井の監修によるもので、ワンダースワン用ソフトとしてはかなりのヒット作となった。 独立から1年後の1997年、北陸自動車道での追突事故に巻き込まれて死去。享年56。
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