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驚いて声も出なかった。
「太田…さん?」
遺影を遠目でしか見たことのない弟が確かめるように太田の名前を呼んだ。
太田は小さく頷き、弟に微笑んだ。
「ーーここからは独り言」
太田はそっと人差し指を口元に持っていき、俺たちに合図した。
そして遠山の前にしゃがみ込み、彼女に語りかけた。
「僕はずっとミナちゃんを愛してる。でも、僕以外にもミナちゃんのことを大事に思ってくれる人はいっぱいいるんだ。大丈夫。君は愛されている。矢尾さん、種岡君、高爪君…そして柄沢君にもね。だから、僕の分までいっぱい愛されてきてね」
太田は彼女に優しく微笑みかけた。
「でもーー…」
その言葉が微かに震えていた。
それはまるで泣いているかのようだ。
「今日くらい、独り占めしてもいいよね?」
そう言って、太田は目の前の遠山を抱きしめた。
もうあの時みたいに体温は感じない。
遠山だって、彼のことを認識していない。
それでも、太田は満足だった。
彼らの望む姿を見届けたので、俺は静かにこの場を去ることにした。
弟も「待ってよ」と後ろからついていくが、俺は振り向かなかった。
外に出ると、晴れた空が夕焼け色に染まっていた。
そろそろ春が深まり、温かな風が吹き去っていく。
俺は納骨堂の前の石階段に腰を降ろした。
「兄ちゃん…」
弟が心配そうに納骨堂を見る。
「美波さん、大丈夫かな」
眉尻を垂らす弟に俺は「さあな」と答えた。
「あとはあいつ次第だ」
どうするべきだったかなんて、俺にはわからない。
結果的には彼女を大泣きさせているし、嘘もついている。
それでもだ。
「ーー柄沢君」
たとえ目を真っ赤に腫れ上がらせたとしても、納骨堂から戻ってきた今の遠山の表情を見ているとこれでよかったと思えるのだ。
「どうもありがとう」
遠山の眼差しからはもう涙も迷いもない。
「…どういたまして」
俺はふざけたように短く笑うと、弟は腰に手を置き、安心したように息をついた。
ーーもぬけの殻になった納骨堂。
太田環の棚扉には誰かのシルバーリングが置かれていた。
それは忘れ物でも、捨てられたのでもない。
"また会いにいく"という約束の印だ。
「じゃーな、Mr.Sucide」
俺は空へと帰る魂に別れを告げた。
夕陽に反射して光の粒子がキラキラと輝いている。
俺たちはその光が消えるまでいつまでも見送っていた。
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