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顔をあげ、声のする方へ向ける。
そこには白あごひげに、白髪に黒い布を巻いた70代の男性が立っていた。
その容態とタブリエ姿からして、ここのマスターらしいが…。
「見かけない顔だね」
僕の顔を見て答える。
当たり前だ。
この町に来たのは昨日なのだから。
「珈琲」
マスターの言葉を無視して、注文した。
あれだけ珈琲の匂いを漂わせておいて、珈琲が無いわけがない。
カウンターに座る僕を無表情で見ていた。
目だけは、孫を見るような目つきで。
「ミートパイはいるかい?」
僕に背を向けた老人を、不意に撃ちたくなる衝動にかられつつ、できるだけ柔らかい声で答えた。
「……うん」
会話はそれだけ。
幾分大きな皿に出されたパイと、おまけみたいな珈琲が、僕の前に並べられた。
僕は歳のわりに小さな手で、パイを持ち上げた。
できだてで、まだ温かい。
雛鳥が親の羽の下にいる気分がわかる。
「誰にこの場所を聞いたんだい?」
パイに噛り付く僕にマスターが問い掛ける。
意外と美味しかった。
「沙夜って人に聞いた」
他人行儀な呼び方だった。
不自然かもしれないけど彼女に会って、まだ半日もたっていない。
それに、まだそんなに話してもいないのだ。
親しみを込めて呼んだりしないさ。
「そうか…。沙夜が…」
マスターが煙草をくわえ、しみじみと話す。
沙夜のことを知っているみたいだった。
理由を聞こうとしたけど、口にすることはなかった。
だって、僕には関係のない話しだから。
空になった珈琲カップを器に戻す。
「ごちそうさま」
御礼の代わりにお金を置いて、席を立った。
「また、おいで」
その声に視線を這わす。
マスターが、僕に笑みを浮かべていた。
目尻のシワが深くなる。
優しい、いい顔だ。
僕はどんな顔で彼を見たのかは分からないけど、掌にはまだ、珈琲の温かさが残っていた。
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