浮き人に鷲

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 地図に描かれていない世界が、この地には存在するという。  毎晩読み聞かせてもらった夢物語。見たことのないその世界を想像して、僕はいつの間にか眠りに就く。地図を片手に握り締め、いつか見つけてやるんだと胸躍らせて、顔も知らぬ世界を夢に見た。  まだ陽は昇らず、星のちらつく深い紺碧に、橙や白色が織りなす薄明かりが、地に沿い薄く伸びる雲を染めていた。  鳥もまださえずりを始めない。数えるほどの家畜はいそいそと活動を始め、しかし静かにその時を過ごしていた。  靴紐を一からきつく縛り直していく。  脇には、この日のために自分でこしらえた特別な鞄。地図と干し肉とアララカの実、そして愛用の掛け物を詰め込んだ。邪魔にならないよう肩から掛けられる革帯も、初めてにしては上出来だ。  これで、準備は整った。  家族に見つかったらという緊張と、想像のできない外への期待とで逸る気持ちが、指先の僅かな震えとなって現れる。  家畜の僅かな物音に、外の草のなびく音。それに紛れ音もなく立つ馴染みの気配を、僕は感じ取っていた。  開け放たれた扉の直ぐ横で俯いているだろうその姿。僕は作業を進めながら、気付かない振りをした。 「ニキ、本当に行くの?」  外へと通じる唯一の扉。開け放たれた扉に佇みこちらを覗き込むようにしている一人の少女は、赤く腫らした目を隠すことなく僕を見ていた。眠らずに、ずっと泣いていたんだろうか。そう考えると、少しだけ胸が痛んだ。 「ああ。決めたんだ」  それでも、僕の意志は変わらない。ずっと望んでいたんだ、今日という日が来ることを。待っているだけでは何も始まらないと気が付いたんだ。だから、誰が何を言おうと進むことを決めたんだ。  紐の擦れる最後の音が、やけにはっきりと聞こえた。  爪先を地に叩いて確認する。うん、大丈夫だ。  鞄を肩にかけて立ち上がり歩を進めて、その場に佇む少女の前を通り過ぎる。彼女は僕を見ていたけれど、僕はただ、視界に入る姿を捉えるだけに留まった。目を合わせたら、押しつぶされそうな気がして。  靴底と草の擦れる音を聴きながら、僕は全身に風を受け、深く息を吸い込んだ。  見上げる空には、一羽の鷲が悠々と翼を広げて飛んでいる。
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