破滅への序章

1/1
43人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ

破滅への序章

信玄の葬儀が全て終わってから一晩ある日。 鶯の鳴き声が響く春の躑躅ヶ崎舘では勝頼が少しばかり緊張した面持ちで楯無の鎧に身を包んでいた、武田当主になる為の儀式である。 勝頼は信勝が一人前になったその日に楯無を譲る気でいたが、武田当主になる、これは自身にとってもこの上ない喜びであった。しかしこの儀式が武田を滅亡への序章と誰が予想できたであろうか 武田家は勝頼が当主になってから侵略が多くなった、そして誰もが鉄砲の実力を知らされるあの長篠の戦いがまさに始まろうとしていた。 遼夜、この時二十歳、この二年間で上げた武功により二百騎の侍大将になり。隣国からは甲斐の赤鬼や鬼武蔵(武蔵守だったため)と恐れられていた。 信春、昌景の近くで戦いを経験し、今では彼らに匹敵する知力と武力を兼ね備えていた。 着実に勢力を伸ばしていた武田家が信長との直接対決に二年近く踏み切らなかった。なぜか、それは信玄の、皆に躑躅ヶ崎舘で見守れて最期を迎える時に、「我死を三年間秘匿し、その間は目立つ軍の行動は厳禁せよ」 と遺言を残し多くの重臣、特に武田四名臣は勝頼の攻撃的な軍事行動に猛反対していた。 一方で信長は機内の敵、まさに信玄が築いた信長包囲網を撃破し、二百万石を有する大大名になっていた。 勝頼は焦っていた。『このままでは信長に下るしかない』焦りは日々積もり、限界になったある日勝頼は皆を集め決断を下した「信長の力がこれ以上つくこと、これは即ち武田家の滅亡を意味する。今こそ、織田を討つため、手始めに徳川を滅ぼさん!!」 正論である、いかに信玄の遺言があっても最早止められない、否、武田四名臣も信長との直接対決しか打開策がないと考えていたのだろう。 言葉では慎重にといいつつ半ば了承し武田家は「御旗、楯無もご照覧あれ!」という勝頼の凛とした声が響きわたり、家臣も復唱した。この言葉の後には誰であろうが異を唱えることは許されなかった。 かくして勝頼は武田軍一万五千を率いて徳川を潰すために長篠城を包囲した。しかし予想だにしない事態が起きた兵糧庫の破壊そして水を絶ったにも関わらず、城兵の必死の防戦で長篠城は落城しない。それどころか奥平氏の家臣、鳥居強右衛門の決死の援軍要請に信長、家康が四万五千を引き連れ参上し両軍は設楽原で対峙した。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!