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暦の上ではもう秋なのに、海の直ぐ近くだというのに、風が強くてもちっとも寒いと感じなかった。
潮と鉄錆びの匂いが強い。煽られた髪が顔に何度もかかり、鬱陶しかったので歩きながらヘアピンで後頭部に纏め上げた。明日にはきっと潮できしきしと痛み、指通りが悪くなっているだろう。
辺りには錆びたコンテナや朽ちかけた漁船が幾つも無造作に放置してあった。漁港が近いのだそうだ。
ぽつぽつと点在する街灯が、闇と闇の間でぼんやりと光っている。
「潮と錆ってなんだか赤い匂いですよね」
小さく言うと、深山さんが振り返った。
「赤い?匂いに色が有るの?」
小さい頃、歳の離れた兄がハンドルを握るバイクに乗せて貰った事がある。それが転倒して、サイドミラーに顔を強くぶつけ怪我をした。どんな転び方をしてそんな事になったのかまでは忘れたが、唇がさっくりと切れた。
血が溢れた。鏡の小さな破片が二つ、口中に飛び込んだ。金属の匂い、そして自らの体液の匂い。
「海に来ると、その匂いを思い出すんです」
「ああ、それは血の匂いって事じゃないかい?ほら、人間の血液と海水の成分ってほぼ同じらしいから。もしかしたら匂いも近いのかもしれない」
吹き付けてくる潮の匂い、それは血の匂い。生臭くてどこか不気味な例えだと感じた。
すっと深山さんが手を伸ばしてきて私の顎に触れた。そのまま上を向くように促される。深山さんの細い目が、じっと私の口元を見る。
「でもそんな大怪我したのに……痕、無いよね」
「だって私が七、八歳の頃だもの。昔の話です。そんな怪我、とっくに治りました」
私が笑ってそう言うと、でも深山さんはやたらと神妙な面持ちで小さく首を振った。
「昔じゃないよ、琴ちゃんが子供の頃なんて、まだ昔じゃないじゃないか」
「それは私がまだ子供ってことですか?」
むっと口を尖らせてそう抗議する私に顔を近づけて、深山さんは軽くキスをした。神妙な表情のままで目を閉じた深山さんの凄く近い顔を、私は薄目を開けて見ていた。眉毛に一本、白いものが混じっていた。
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