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潮の匂い以上に、キスは生臭かった。夕飯に深山さんが食べた刺身定食のせいだろうか。 顔をゆっくり離すと、深山さんは「ほら」と空いている左手を私に差し出してきた。私は無言で右手を深山さんの指に絡めた。今度は並んで海沿いの道を歩いた。 手を引かれながら、何故か妙な懐かしさを覚えていた。 深山さんとこうやって手を繋いで歩く機会は何度もあったがこうして長い距離を、しんとした無人の夜道を行くのは恐らく始めての事だろう。 いつか、兄と手を繋いでこのような道を歩いた事を思い出した。 季節は真冬、どんよりと雲が垂れ下がった薄暗い昼下がり。 無人のあぜ道が田んぼや畑を縫いながら、遙か向こうまでずっとずっと続いていた。稲はもちろん、水さえ引いていない田には、土を隠すように枯れ草が折り重なって倒れている。吹き付ける風は冷たい。 「生」の気配のまるで無い灰色の冷たい世界の中で、兄の体温だけが温かく、彼のオレンジ色の頭髪だけが図鑑で見る南国の生き物のような鮮やかさを有していた。 「琴子、寒くないか?」 問われて、こっくりと頷いた。兄は立ち止まり私の顔半分を覆っていた大きなマスクをずらす。鼻とガーゼの間を、ぬっとりと黄色い糸が繋いだ。 「あー酷いな」と兄は呟き、鞄からポケットティッシュを取り出した。 「ほら、ちんして」 私の鼻水を含んだティッシュをくるくると丸め、兄はポイと投げ捨てた。 「兄ちゃん、駄目なんだよ」 「何が?」 「道にゴミ、ポイしちゃ駄目なんだよ。またお父さんに怒られちゃうよ」 カラカラと兄は笑った。口端から彼の鋭い犬歯がちらりと覗いた。 「お前の親父さんに怒られなくても、本当はポイしちゃ駄目なんだ。琴子はやっちゃ駄目だぞ?」 「兄ちゃんは良いの?」 「良いんだ、兄ちゃんはもう悪い子だから」 笑顔のままでさらりと兄は言った。
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