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「色々干渉されて嫁さんが精神的に参ってしまいそうだったから、僕等は遠くの町へ引っ越す事にしたんだ。彼女は少し不安がっていたけどね、でも環境を変えるのが彼女の為になると僕は思ったから」 「……で、奥さんは?」 「うん、少しずつ元気になったよ。大事にした。僕の親族が彼女を追い込んでしまった分、僕がフォローしなきゃって。言い聞かせ続けたよ、子供なんか居なくても僕は君が居れば良いんだ。君さえ居てくれたら幸せなんだって。毎日仕事が終わると真っ直ぐ家に帰った。色々な行楽に出かけたり、僕の思いつく限りの、出来る限りの楽しい事を一緒にしたよ」 それでも、と深山さんはため息を吐いた。 「僕にもどうしようもなく塞ぎこむ日はあるんだよ、仕事でミスやらかした日とか、嫁さんが意味もなく不機嫌になって感傷的になってしまう時とかさ。でもそんなイライラを彼女にぶつけたくなくて、一人になって考えたいとき、僕は釣りに行くようになった」 「昔、釣りによく行ったっていうのは……」 「うん、そういう理由から。色々思い悩んでいてもさ、魚が釣れたり逆にヘマして逃げられたり、そんな事をしていると気が晴れるような気がしたんだ。で、家に帰ると嫁さんが待っている。さっきのおじさんみたいにね」 塀の端で釣り糸を垂れていたおじさん。 「嫁さんが握り飯と一緒に持たせてくれたんだが、一々こいつの殻を剥くのが億劫で」 きっと家では奥さんが面倒臭がりな彼の為に、栗を剥いてくれるのだろう。「じゃあな」と片手を挙げて帰る先には、きっと暖かな家族が待っている。 「それが当たり前なんだって思ってた。大事にしたんだ、彼女が幸せでいられるように、傷つかずに済むように。綿でくるんで宝箱に大事にしまって。でもある日仕事から家に戻ったら――」 彼女の荷物が、無かった。ちゃぶ台の上には「ごめんなさい」という書置きと署名捺印の済んだ離婚届が有った。
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