名前

4/4
前へ
/9ページ
次へ
「君は、名前の由来を本当に知らないのかい?」 ホテルの部屋で、情事を終えた後のまどろみの中、彼はかつてと同じ質問をした。 私は、あの時嘘をついてた。 本当は、自分の名前を知っていた。 けれど、思春期特有の反発心が、あの時の先生の質問に嘘をつかせたのだ。 "奏"という名前は、祖父がつけてくれたものだった。 音楽が好きだった祖父が、幼い時、初めて楽器に触れたときの喜びにちなんで、初孫の私に出会えた喜びを込めてつけてくれた。 「知っているわ。」 私は、少し間を置いてから答え、名前の由来を話した。 「そうか。いい名前だな・・・。」 彼は話を聞き終えると、何故か哀しげな返事をした。 私は彼の様子に眉をひそめ首を傾げた。 私の訝しげな表情を見た彼はため息を一つついてから話し始めた。 「妻もさ、知っていたんだ。」 愛人の私に対する配慮からか、彼は奥さんの話を語ったことは無く、彼から奥さんの話を聞いたのは、あの放課後の出来事以来初めてのことだった。 「だけど、妻は僕には教えてくれなかった・・・。 俺は、彼女に信用されていなかったのかな・・・。」 彼は独り言のように力無くそう言い、そしてもう少し、何か言いたげだった。 けれど、奥さんのことを口にする彼に私は心細くなり、それ以上聞きたくなくて、私は黙って彼に抱きついた。 「ごめん。彼女の話はやめよう。」 私の様子を察してか、彼はさっきよりも哀しそうな声で謝った。 そして、抱きついた私の髪をそっと静かに撫でた。 私は彼に抱きついたまま黙っていた。 その日、私達はずいぶんと長い間そうしていた・・・。 相変わらず、彼は私のことを名前で呼ばない。 「君は、何にする?」 彼がランチメニューを差し出しながら、私に尋ねる。 「せんせと同じものにする。」 私は笑顔で返した。 彼はきっと別れるまで私のことを名前で呼ばないだろう。 そしてきっと、別れてからも、私は彼に名前を呼んでもらえないだろうと思った。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加