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「君は、名前の由来を本当に知らないのかい?」
ホテルの部屋で、情事を終えた後のまどろみの中、彼はかつてと同じ質問をした。
私は、あの時嘘をついてた。
本当は、自分の名前を知っていた。
けれど、思春期特有の反発心が、あの時の先生の質問に嘘をつかせたのだ。
"奏"という名前は、祖父がつけてくれたものだった。
音楽が好きだった祖父が、幼い時、初めて楽器に触れたときの喜びにちなんで、初孫の私に出会えた喜びを込めてつけてくれた。
「知っているわ。」
私は、少し間を置いてから答え、名前の由来を話した。
「そうか。いい名前だな・・・。」
彼は話を聞き終えると、何故か哀しげな返事をした。
私は彼の様子に眉をひそめ首を傾げた。
私の訝しげな表情を見た彼はため息を一つついてから話し始めた。
「妻もさ、知っていたんだ。」
愛人の私に対する配慮からか、彼は奥さんの話を語ったことは無く、彼から奥さんの話を聞いたのは、あの放課後の出来事以来初めてのことだった。
「だけど、妻は僕には教えてくれなかった・・・。
俺は、彼女に信用されていなかったのかな・・・。」
彼は独り言のように力無くそう言い、そしてもう少し、何か言いたげだった。
けれど、奥さんのことを口にする彼に私は心細くなり、それ以上聞きたくなくて、私は黙って彼に抱きついた。
「ごめん。彼女の話はやめよう。」
私の様子を察してか、彼はさっきよりも哀しそうな声で謝った。
そして、抱きついた私の髪をそっと静かに撫でた。
私は彼に抱きついたまま黙っていた。
その日、私達はずいぶんと長い間そうしていた・・・。
相変わらず、彼は私のことを名前で呼ばない。
「君は、何にする?」
彼がランチメニューを差し出しながら、私に尋ねる。
「せんせと同じものにする。」
私は笑顔で返した。
彼はきっと別れるまで私のことを名前で呼ばないだろう。
そしてきっと、別れてからも、私は彼に名前を呼んでもらえないだろうと思った。
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