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 フロントで部屋の鍵を渡すとき、無意識に手が震えていた。  自動ドアまで逃げるようにして向かうと、従業員に「そんな靴じゃ濡れますから」と言われて、黒の長靴と旅館の名前が殴り書きされた色褪せた青い傘を受け取った。それを身につけると、足早に旅館を出た。日常の出来事だったのに、私は悪いことをして見つかったときの子どものようにひどく動揺していた。  外へ出ると、雪はさらに風をともなって地面を吹きつけていた。  霧の中にいるようで、粉雪は眼をかすめて飛び交う。  雪消の道に長靴を鳴らしながら歩いていると、水の弾ける音が壁に反響した。自分の足音以外には何もなかった。  しばらく行くと、一羽の烏が電柱の元でごみ袋から魚のあらを啄み、うら悲しい声で鳴いた。  溝からは湯気が吹き出し、あたりには温泉のにおいが漂っている。  かじか橋を渡るころ、山は重厚な存在感をあらわした。  山を撫でつけ、私の頬にぶち当たる雪が薄気味悪い感じだ。私はこの先で死ぬのかもしれない。
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